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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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1192年 頼朝征夷大将軍に!鎌倉幕府スタート

義経を殺し、奥州藤原氏を滅亡させた頼朝は1190年、京に行く。後白河法皇に「征夷大将軍」にさせてくれとお願いするが却下。が、1192年後白河法皇が死ぬと、朝廷から「征夷大将軍」に任命された。日本で始めての武家政権・140年続く鎌倉幕府がスタートとなったのです!!鎌倉時代説は1192年がフツー言われてるんだけど、「守護・地頭」をおいた1185年説もあります。


鎌倉幕府の仕組み

頼朝は、自分の下に集まってきた「武士」を御家人(ごけにん)として主従関係を結んだ。御家人の先祖代々の土地の所有権を認める(御恩)かわりに、幕府への忠誠を義務づけ、戦いがある時い参加しなさい!(奉公)という御恩と奉公の関係を結ぶ。 政治はというと

侍所(武士を統率)

政所(行政つまり政治をやるとこ)

問注所(裁判をやるとこ)

まだこの頃は朝廷や公家の土地や荘園があったので、頼朝は一応これは認めてたけど自分の御家人を守護・地頭に任命してチェックさせた。 


1193年 日本三大仇討ちの一つ 曽我兄弟

日本三大仇討の一つに数えられる「曽我物語」兄弟の名前は曽我祐成(すけなり)・時到(ときむね)です。事の発端は、曽我兄弟の四代前になる工藤祐隆(すけたか)が、後妻の連れ子の娘を気に入っちゃったことです。後妻よりもその連れ子だった娘を気に入ってしまい、子供を産ませてしまったのです。そしてその娘に産ませた祐継(すけつぐ)をめちゃくちゃ可愛がり、自分の本領を与えてしまったのです。

おもしろくないのは前妻の息子達。祐隆の嫡男である祐家は病気で死んでしまい、祐家の長男である祐親(すけちか)は、「本当だったら、こっちが本筋じゃねーか!」とムカムカしていました。すると祐継が幼い息子を残したまま病気で死んでしまったのです。これはチャンス!と祐親。祐継の土地を乗っ取ったのです。で、祐継の息子・祐経(すけつね)が大きくなり訴えましたが、全く聞き入れてもらえず、とうとう祐親を殺害しようと計画。

ところが祐親を殺せず、その嫡男である祐泰が殺されてしまったのです。この「祐泰」が、曽我兄弟の父親でした。父が殺された時、兄の祐成は5歳。弟の時到は3歳でした。その後の工藤祐経は頼朝の兵として戦い、出世していくのです。曽我兄弟はこの「工藤祐経」を父の仇・・・・と、幼い頃から仇討ちをするべく生きていました。

1193年 頼朝は富士山で狩をすることに。この日はみなで酒を飲み、酔って寝入っていました。そこへ曽我兄弟が「父の仇!覚悟!」と襲撃し、ついに悲願達成となったのです。が、兄の祐成は、慌てて駆けつけた祐経の家臣らにその場で斬り殺されてしまいました。弟は翌日、頼朝の前に連れてこられました。その時、時到は堂々と遺恨を延べ、死ぬ覚悟でやってきたことをまったく臆することもなく言ったのです。結局死罪となってしまいましたが、頼朝は「曽我兄弟は武士の鑑じゃ」と褒めたのです。


新田氏没落!頼朝の不倫が原因!

頼朝は弟の義経に負けず劣らず大の女好きでした。鎌倉幕府が始まり、源氏に一番近い嫡流として新田氏の新田義重(よししげ)ちなみにお次が新田義重の弟で足利義康(よしやす)の足利氏。この2人は源義家の息子 源義国の息子です。なので頼朝とは親戚。さらにその下には源義家(八幡太郎)の弟の源義光(新羅三郎)からでた武田氏。で、問題になるのは新田義重の娘。

この娘は頼朝の兄・源義平の奥さんだったんだけど、平治の乱で義平が死んだために未亡人となっていました。頼朝はモテモテだったので軽い気持ちで兄の奥さんに声をかけたのです。ですがこの奥さんが「あたしのダンナ義平は悪源太と呼ばれた武芸の達人よ?たった7騎で平重盛500騎をやっつけたほどの強者よ?いまさらあんたなんか相手にできないわよ」と頼朝をバカにしまくったのです。

頼朝はこの返事を聞いて激怒しました!飛ぶ鳥を落とす勢いの自分に対してなんて失礼な女だ!と新田義重を出世コースから外したのです。この時北条氏はというと有力な邪魔者が消えてくれて喜びました。頼朝の身勝手な行動を止めることはしなかったのです。そして新田氏は幕府の主流から思いっきり外されてしまい、ビンボー生活に突入!100年後新田義貞によってやっと恨み(?)を晴らすことができるのです。


1198年12月27日 頼朝死す!

幕府を開いてから7年後、頼朝が53歳で馬から落馬して死んでしまう。突然の死にみんなビックリ。これには暗殺説があり、鎌倉時代の公式史書「吾妻鏡」は1196年から1199年が抜けていて、頼朝死去の死去についても「橋の完成祝いの帰りに稲村ガ崎で落馬して死んじゃった」と簡単に書いてあるだけではっきりとした死の原因を書いていないから。

他の説として・・・

後鳥羽上皇暗殺説
落馬した時は死んでおらず、怪我の療養中に毒を盛られたという説があります。後鳥羽上皇が幕府の急激な成長に焦りを感じて土御門通親(つちみかどみちちか)を通し土御門の家臣だった大江広元に毒を盛らせたとのこと。

政子に殺された説
頼朝が政子に「一番美男子は誰だと思う?」と聞き、政子は「畠山重忠だわぁ」と答えました。頼朝は「もしかして政子、畠山と浮気してるんじゃ・・・」と心配になり、畠山に似た格好で政子の寝所へ。驚いた政子が刀で斬りつけたら、実は頼朝だった・・・という説。

他にも色んな説がありますが、いずれにしても「将軍」として名誉ある死に方ではなかったため、頼朝の死の部分は不透明になってしまいました。そして頼朝死後は北条氏が「執権」として権力を握ります。


1199年 2代将軍 頼家 頼朝死後の政治は??

頼朝と政子には頼家と実朝という息子がいました。頼朝死後は、長男の頼家が二代目将軍に任命されました。頼家は18歳になったばかりだったので、幕府の運営には13人の会議制で運営することに。名目は若い将軍を補佐するってことだったんだけど、実際は頼家に独裁政治をさせないため。

この13人の後家人は

北条時政(政子の父)
北条義時(時政の次男)
三浦義澄(頼朝挙兵からの忠臣)
比企能員(ひきよしかず・頼家の妻・若狭局の父)
梶原景時(頼朝を石橋山で見逃して以来の忠臣)
和田義盛(侍所長官)
安達盛長(頼朝の忠臣)

などなどのメンバー。

そして忘れちゃいけない「北条政子」


将軍よりも強い母 政子

頼家は将軍になってすぐにある事件を起こす。安達盛長の子景盛が仕事で出かけてる最中に、景盛の妻を横取りしちゃう。もちろん景盛怒って抗議するんだけど、頼家が逆ギレして景盛を罰しようとしたのです。将軍の権力は絶対だという鎌倉幕府の仕組みからいえば、将軍に抗議した景盛は罰せられてもしかたない・・・って動きの中飛び出してきたのが政子。頼家に対して「景盛を殺すなら、先に私を殺してからにしなさい!」と言ったのです。

さすがに頼家、政子に言われちゃどーしよもないので、景盛を罰するのをあきらめた。将軍の暴走をストップできそうになかった家臣らは「将軍よりも強いのは母・政子だ」という認識を持つようになるのです。頼朝の後を継いだ頼家がもう少し賢い将軍だったら、この先政子の出番はなかったことでしょう。


1200年1月19日 梶原景時一族殺される 

幕府の権力は13人の御家人達が均衡を保っていました。そんな中、もともと「告げ口ばっかしやがって!」と、みんなに嫌われていた梶原景時がよからぬことを企んでいる!というニュースが入ってきたのです。景時が結城朝光(ゆうきともみつ)を讒言したのが事の発端でした。景時は武士でありながら教養があり、京風文化にも通じていたので頼朝から気に入られていました。

そんな景時を「あいつは要領がいい。ずるがしこいヤツだ」と皆嫌っていたのです。三浦義澄・和田義盛・畠山重忠らが中心となり梶原潰しにかかりました。これはヤバイことになってきた・・と感じた景時は一族みんなで京都に逃げようとしたのです。が、京へ向かう途中(静岡県清水市)で、幕府の手先に襲われ戦闘となり殺されてしまいました。こうして梶原一族は滅亡してしまいました。


次のターゲット 比企能員 

次に槍玉にあがったのは比企能員(ひきよしかず)能員は頼朝の乳母である比企尼の養子です。そのため早くから頼朝に仕え、側近となり信頼を得ていました。そして2代目将軍頼家に娘・若狭局(わかさのつぼね)を送り込んでいて、権力を得ていました。北条一族はこれがおもしろくなかった。さらに若狭局は、長男「一幡」を出産。頼家は比企氏ばかりを頼るように。自然に比企氏と北条氏の対立が進んでいくのです。


1203年8月 北条VS比企

この年の8月、頼家が病気になりました。かなりの重態で危篤状態となってしまったのです。この時、北条時政と政子は頼家を将軍やめさせて政子のもとで育てていた次男の実朝を時期将軍にさせようと計画。頼家は比企氏サイドについたばかりか、ちょっと性格が乱暴であまりいい将軍じゃなかったから。

そして頼家病気療養中に勝手に権力を分割。全国の守護・地頭の権利を頼家の息子一幡と実朝に分けちゃったのです。これを聞いて頼家は、家督を譲るのは弟ではなく、自分の子一幡じゃ!と激怒。比企氏と手を組み、北条やっつける計画をたて始めたのです。


1203年9月 比企の乱

北条時政はそれを察知し、巧みに比企能員を自宅に招き無防備だった比企能員を殺害してしまったのです!そしてすぐに、和田・三浦・畠山の協力を得て比企氏の家に攻撃しにいったのです。頼員を殺された比企一族は、一幡の屋敷に立て籠もりました。北条らは比企氏の家に火をつけました。6歳の一幡と若狭局は炎の中に消えていったのです。


1203年9月 頼家大ショック

妻と子供が殺されたことを知った頼家。すぐさま和田義盛らに時政を殺せぇー!と命じました。ですが和田はすでに時政と通じていました。頼家は泣く泣く将軍の座を奪われ出家させられてしまったのです。頼家は、伊豆の修善寺に幽閉されました。そして翌年、お風呂に入っている時に時政の暗殺者により殺されたのです。23歳でした。 


1203年 3代将軍 源実朝 時政と政子のバトル

頼家が暗殺され、弟の実朝が11歳の若さで3代将軍に。幕府の実権は、執権である北条時政が握っていました。もとは政所の長官を執権と呼んでて、のちに侍所の長官も兼ねるようになる。が、時政は執権だけでは足りなくなってきたのです。この頃、時政は後妻の牧の方の言いなりになりつつありました。政子はこの牧の方が大嫌いなのでした。


実朝 13歳で結婚する

政子は実朝と自分の姪を結婚させよと思っていました。ところが、実朝は京都の貴族の娘と結婚してしまったのです。その京都の娘とは牧の方と時政の娘の嫁ぎ先の家の娘でした。この頃、牧の方の発言力は政子をも凌ぐようになっていたのです。 


1205年2月 畠山一族滅亡 

ある時、有力御家人である畠山氏が時政の大好きな牧の方の娘のお婿さんである平賀朝雅とケンカしちゃう。1205年6月、時政は息子の義時と時房を呼び、謀反を企ててる畠山をやっつけろと命令。だけど、政子や義時・時房は後妻である牧の方が嫌いでしたので

討伐に参加したくないと命令を断ったのですが、当時の実力者時政には逆らえず、仕方がなく畠山討伐に向かいました。いざ討伐しに行くと、畠山氏はもちろん謀反など企てていなかったが、他の武士らの手前、畠山氏を討ち取るしかなく畠山一族滅亡したのです。


1205年 親子ゲンカ!北条時政失脚

時政と牧の方に利用されたことにムカついてる先妻チーム3人と、時政・牧の方夫婦チームの間に亀裂が入りまくっていました。すると時政、今度は実朝に将軍を辞めさせて、牧の方の娘のお婿さんである平賀朝雅を将軍にしようと企む。が、このたくらみに参加してくれる御家人は全然いませんでした。

そしてこ計画は政子と政子の弟の義時にばれてしまい、失敗に終わったのです。このチャンスを逃すか!と先妻チームは時政らを攻撃!こうして時政と牧の方を伊豆へ追放したのです。1205年に時政は失脚し執権は義時へ。


蹴鞠大好き!三代将軍実朝

幼くして将軍になった実朝。実権を持たない飾り物であることをわかっていました。変に逆らうと、兄の頼家みたいになっちゃうし・・・ということで、反抗することもありませんでした。ですがやはり不満は溜まっており、そのはけ口を歌の道に求めていました。京都が大好きになってきた実朝。

そして時の上皇である後鳥羽上皇とも歌の道を通して出会い、実朝は後鳥羽上皇を尊敬するようになっていくのです。ですが「天下の将軍が武の道から外れて、天皇家に尻尾を振っている」ということとなり、東国武士達から批判の声が出てきたのです。しだいに「実朝は蹴鞠や歌ばっかやって遊んでばかり。武芸は全くできないダメ将軍」というイメージになってきてしまったのです。


1213年 和田氏の乱 

執権政治を始めた義時にとって、今や和田氏・三浦氏が最大のライバルちなみに、和田氏は三浦氏と同族。和田義盛は、鎌倉幕府創立時からの有力御家人で、侍所の長官。北条氏の専制政治に自分達は邪魔だと常日頃感じている和田義盛は、北条討伐の計画を密かに進めていた。が、これが密告によりばれてしまい、和田一族はばれたらなしようがない!と北条氏を攻撃。

なかなか奮闘するが、幕府軍の人数には勝てることができず、とうとう和田氏の4男が討たれたのです。すると父・義盛悲しみのあまり戦意を失ってしまい、討たれてしまった。これは、北条氏による有力御家人を排除するための陰謀という説もあり。ちなみに、江ノ電の駅に「和田塚」というのがありますが、ここを明治時代に掘ったところ、すごい数の人骨が出てきたらしく、ここが「和田合戦」の場所と言われています。


1219年1月27日 実朝暗殺 いちょうの木の公暁 
実朝は将軍だけど実権はまったくなく、その反発からか京風の文化を好み和歌や蹴鞠などをして遊んでばっかいる毎日。藤原定家に和歌を学び、「金槐和歌集」という歌集を作っちゃうほど。そんなある日、鶴岡八幡宮へ出かけました。が、鶴岡八幡宮のいちょうの木の下に潜んでいる男がいた。

その名は「公暁(くぎょう)」2代将軍頼家の次男で、実朝の甥になります。幼い頃から、父を殺したのは実朝・・・と、実朝政権を嫌う人々から叩き込まれており、とうとうこの日、「父のカタキ!!」と実朝を暗殺してしまったのです。これにより、源頼朝の血を継いだ将軍は3代で途絶えてしまいました。


実朝暗殺の黒幕は!?

この暗殺の黒幕は色んな説がありますが、有力なのは三浦氏。三浦義村は北条義時につぐ幕府N02の権力の持ち主。義村は源実朝と北条義時を2人まとめて葬り、幕府をのっとってやろう!と思っていた。そして暗殺者公暁の乳母は三浦義村の妻・・・。

義村は公暁を4代将軍とし、幕府を操ろうとしていた。が、この暗殺が北条泰時にバレてしまったのです。北条義時は実朝の後ろにいて歩く役割だったんだけど、途中で具合が悪いといって、京都からやってきた源仲章(なかあき)にその役割を譲ったのです。そして公暁は実朝と仲章を殺害!仲章お気の毒だよ(^^;) 

公暁は計画通り実朝&義時を殺したと三浦義村に使者を送るんだけど、反対に義村からの使者に殺されてしまうのです。他には、義時がもっと自由に執権政治をやりたいがために公暁をそそのかしたのでは??・・とう説もあり。幕府はその後「将軍暗殺は公暁一人の単独犯」と発表しました。


朝廷の権力者 後鳥羽上皇

この頃京都では高倉天皇の4番目の息子で、安徳天皇の後の82代 後鳥羽天皇が朝廷を仕切っていました。後鳥羽天皇は文武ともに優れている秀才でした。1198年に土皇門天皇に譲位し、院政をスタートさせてました。和歌を好んでおり、1205年には藤原定家に新古今和歌集を作らせたりしていた。ちなみに、鴨長明の方丈記もこの頃。武芸に優れた後鳥羽上皇は、幕府の力に屈しない強い意思の持ち主で、幕府がえばりくさってるのが気に入らなかった。そこに3代将軍実朝が殺された!というニュースが届いたのです。


1221年5月 後鳥羽上皇動く 打倒幕府!

「将軍が暗殺!」これで幕府内は動揺するに違いない!運が向いてきたぞとニンマリ。幕府はというと次の将軍はどうする?ってことになりました。実朝に子供がいなかったからです。政子らは朝廷のご機嫌伺いのために「後鳥羽上皇の一族を将軍にしませんか?」とお願いに行くも、後鳥羽上皇に拒否されてしまいました。代わりに九条家の息子頼経2歳を鎌倉に送ったのです。

さらに弱体化した幕府に対し、後鳥羽上皇は愛人亀菊の所領を担当している幕府の地頭職の解任を要求したりと、幕府を挑発。西日本には御家人じゃない武士も多いし、僧兵や熊野の人々も朝廷側についてくれるはず!そう考えた後鳥羽上皇は、ついに1221年5月 幕府討伐を決意したのです!政子の弟の執権北条義時をやっつける!という宣旨をだしたのです。

後鳥羽上皇謀反のニュースを受けた北条義時は焦った。有力な御家人らを次々ぶったおしてたため、北条家は人気がなかったのです。それにあの頼朝さえ真正面から朝廷に反抗したことはない。この時代天皇は神であります。幕府はついにこれまでか・・・と皆思ったのでした。

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