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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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尼将軍 北条政子の名演説

ここで出てきたのが北条政子。政子は御家人達を勢院集めた。「私は今までつらい目にあってきました。娘をなくし頼朝もなくし、さらには息子2人・孫2人次々となくしました。そのたびに死のうと思いましたが三代将軍の菩提を弔うため生きてきました・・・」と演説が始まったのです。

肉親の情よりも幕府を優先してきた政子の言葉は、御家人達の心に染み入りました。そして「みなのもの、これが私の最後の言葉です!幕府ができる前、武士はひどい扱いを受けてきた!頼朝がここまで頑張って武士のためにやったのを無にできようか!ここで朝廷に屈してしまえばまた元通りになってしまう。今こそ、頼朝の御恩に報い、上皇軍と戦うべきである!上皇軍につきたい者は今すぐ名乗り出よ!!!」

そしてさらに「幕府が上皇に背くのは愛人亀菊のわがままによって地頭職を解任することはできないからである!頼朝がみなのものの勲功によって与えた職を何の落ち度もなく愛人のわがままによって取り上げることができようか?昔は京都の守護は3年やらされた。三年も京都にいれば国に戻る時に裸足で帰らねばならぬほど関東の武士はつらい思いをしてきた!これを頼朝は半年にまで短縮した!これが関東の政治である!京都につくか、関東につくか、今しかと心を決めよ!」ととタンカをきったのであります。

この演説は関東の武士の心をがっちり掴んだ。「そうだ!頼朝依然の関東武士は悲惨な生活だった!また元に戻るなんてイヤだ!」と声があがり「鳥や獣も飼い主への恩は忘れません!都を枕に討死し屍を禁中にさらします!」と言い武士達は団結し朝廷と戦うことを決めたのです。


1221年5月 幕府VS朝廷 承久の乱

そして、政子は「攻撃を待ってるだけじゃダメ!こちらから進軍し迎え撃て!」と提案。北条義時&時房は箱根あたりで待ってようヨと消極的。上皇軍を迎え撃つことに。京都から西は上皇側に味方し、朝廷VS幕府の天下分け目の戦いが始まる。

幕府軍の大将は北条泰時。副将に時房泰時は義時の長男で、時房は時政の3男(政子&義時の弟ね)泰時は鎌倉幕府を代表する平和主義者義時は、自分が人気ないのを知ってたので、息子の泰時を大将にしたわけデスそして宇田川で決戦幕府側は全員討ち死に覚悟で鎌倉を出発。「いざ鎌倉!」を合言葉に、次々と幕府側の武士があつまりその数20万人。

対する朝廷側は、結構のんびりしてたらしく「なんで幕府軍に、こんなに人があつまるんじゃ?」とびびってしまい、宇田川の合戦は幕府軍の圧勝。その後も幕府軍はガンガン進軍し、朝廷軍は完全に叩きのめされた。

幕府軍が京へ入ってきた時には、後鳥羽上皇うつ術なし。家に閉じこもり、討幕計画はオレじゃないよ!部下がやったんだよ!オレは関係ない!と苦し紛れに言ってきたのです。義時は、それを無視。この乱に関わった者は、厳しく処分。後鳥羽上皇は讃岐に島流しとなりました。そして幕府は、朝廷を監視するために六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置。幕府の力が西国へも伸びることになったのです。

さらに、朝廷方についていた公家や武士の領地を没収して幕府軍で活躍した武士に恩賞として与えた。また、新補地頭(しんぽじとう)を置き、とりあげた土地に御家人を任命した。幕府の力は、承久の乱によりパワーアップしたのです。


1224年 親鸞の浄土真宗

この頃、親鸞が浄土真宗を広めていた。ちなみに、浄土真宗は戦国時代に度々起きる一向一揆の一向宗のモト。平安末期、世の中が源平合戦に明け暮れてるころ法然が浄土宗を開いていて、それが発展したのが浄土真宗。

南無阿弥陀仏と唱えると救われますという教え。これを唱えれば悪人でも極楽にいけますよってモノ親鸞は、法然のいるのちの知恩院(ちおんいん)で浄土宗を開いてた法然のとこに入門。が、僧のくせに結婚しちゃったので他の僧から嫌われていました。ちなみに僧は食べちゃいけないといわれていたお肉も大好き!

1206年に法然の弟子が院の女官を出家させちゃったことに怒った朝廷が念仏を禁止。法然や親鸞も流罪になっちゃった。で、親鸞は東国へ行き信者が増やしていく。唱えるだけで極楽へいけるって教えなので、泥棒なんかが「悪いコトしてても念仏となえりゃ極楽に行けるぜ」と、悪いやつが減らなくなりとうとう1234年幕府により行き過ぎた念仏を禁止された。その後、親鸞は京に戻って弟子達の指導に励みました。


1125年 北条政子 死去

頼朝死後も、遊んでばっかいる息子に代わって政治の表舞台に立ち「尼将軍」と言われました。日本史上、数少ない女性政治家の中で有名度NO1の政子ですが1225年 69歳で死去。お墓は鎌倉に寿福寺(じゅふくじ)に実朝と一緒に眠ってます。


1227年 道元の曹洞宗 

この頃栄西が臨済宗を開く1191年宋に渡ってた栄西が帰国して開いたもの。他力本願の浄土宗とは違って、座禅をすることによって自ら悟りを開きなさいというモノ。これが武士の気風にピッタリだ!ってことで、幕府は、栄西のために寿福寺を建てて保護した。栄西亡き後教えを継いだのは道元。

臨済宗は世俗化しすぎて、禅の精神から離れてしまった!と禅の精神をもっと強化した曹洞宗を始めた。これも難しい経文に頼らずに座禅中心なので、武士らに人気。が、延暦寺の僧が経文をナメてる!と妨害。京を出て越前(福井県)へ行き、布教につとめました。


1232年 御成敗式目制定

承久の乱の後、武士の力が強くなるにつれて領地を巡る争いが起こるように。幕府はというと北条義時の側室の子、泰時が3代執権となりおじの時房を連署(れんしょ・執権を助ける人)に任命して、御家人の中から11人選んだ評定衆(ひょうじょうしゅう)を作って政治を公平に行うようにがんばっていました。

泰時は守護・地頭の土地争いが絶えないというのを聞いて、1232年 51条からなる武家の法律「御成敗式目」を制定。基本は、武士の土地や権利を保護すること。御家人の土地は絶対保障するけど、そのかわり守護・地頭の役目はきっちり守れ!って感じの内容で、不正をできにくくした。さらに、年貢が納められなくて逃げていった農民の妻や私財を勝手にとりあげるのを禁止。

また、いったん親が子にあげた土地を親が自由に取り戻せたり、女性にも土地の相続権を認めたりした。ただし、荘園にはまだ立ち入りができなかった。この法律は、御家人だけのものなので、家来が主人を訴えたり農民が地頭を訴えたりするのはダメでした。泰時は、側室の子なので執権につくときかなりモメた。一応正室の子もいたからね。正室の子にお金をいっぱいあげたりしてなんとか平和に。吾妻鏡によると、泰時はみんなに好かれたイイヒトだったらしい。


1226年 四代将軍頼家 将軍の権威 まるでなし

ところで、政子らが将軍を後鳥羽上皇の一族から・・・とお伺いをたて断られた時、後鳥羽は「代わりに頼朝の妹のひ孫である2歳の九条頼経をあげるよ」ってことで、頼経は京から鎌倉に連れてこられた。ちなみに、義時は1224年に死去。3代執権は泰時だよ。

そしてこの頼経は1226年に8歳で4代将軍に就任。1230年12歳の時、2代将軍頼家の娘竹の御所と結婚させられました。まさに北条氏に無理やりやらされた傀儡将軍でした。傀儡ってのは、あやつり人形みたいな意味だよ。が、だんだん大きくなるにつれ反北条派が頼経に接近してきました。

1242年に泰時が死去経時が4代執権に就任しました。で、反北条派勢力に丸め込まれてる将軍頼経と執権経時は仲が悪くなっていったのです。頼経が27歳になった時、経時から「大きくなって自分の意見を言うようになったので扱いづらい!」と、将軍を辞めさせられ、息子頼嗣を6歳で将軍にさせられちゃいました。


5代将軍 頼嗣 

無理やり辞めさせられた頼経。跡を継いだのが5代将軍頼嗣頼経と竹の御所には子供がいなかった。他の女性との子です。が、1551年に頼嗣は謀反事件に絡んでるという理由で、追放されてっしまいました。


1256年 6代将軍宗尊親王

お次は後嵯峨天皇の息子 宗尊親王(むねたかしんのう)が、1256年 6代将軍になる。九条頼経と九条頼嗣の二代を、摂家将軍と呼びます。宗尊親王が将軍になったころには北条氏が政治基盤を固めまくってたので、将軍といえども権限はまったくなかった。
 
北条氏執権政治

4代執権経時は、5代将軍頼嗣に妹の檜皮姫(当時16歳)嫁がせ、頼朝以後はじめて北条氏は将軍家の親戚になった。が、23歳で弟の時頼に執権をゆずり、1ヵ月後死んだ。これは時頼が絡んでんじゃないかと言われている。時頼は、4代将軍をやめさせられた頼経が、いつまでも鎌倉にとどまり反北条派と仲良くしてるのが気に入らず、謀反を理由に京へ強制送還。その際、反北条派勢力も流罪したりと、お灸をすえた。

さらに、1247年には有力御家人の三浦氏に謀反の動きありとの口実で三浦一族を滅ぼしてしまい、ついでに上総の豪族千葉氏も滅ぼしちゃった。これで北条氏をおびやかす御家人の掃除は終わった。1256年に、宗尊親王を将軍にするが、北条氏が実権を握ったまま。が、時頼が病気がちになり、息子の時宗はまだちびっこだったので、一族の北条名時に6代執権を譲ったけど、実権は後ろで時頼が握り続けた。

時頼により、北条専制政治が切り開かれました。ちなみに時頼は37歳のとき座禅中に死んだらしい。名時は1564年に病気になり北条政村に執権を譲った。政村が7代執権になるが、時頼の息子の時宗が18歳になるまでの条件付き。

将軍はというと、宗尊親王がだんだん幕府っつーもんがわかってきてうざくなってきたってことで、これまた謀反の疑いありとして1566年に京へ追放。宗尊は、鎌倉にいた頃の寂しさを京に帰って和歌で詠んだらしい。次の将軍は宗尊の3歳の息子 1566年 7代将軍 惟康親王(これやすしんのう)これまた名ばかりの将軍でした。そして1268年に大きくなった時頼の息子時宗が8代執権になりました。


朝廷は兄弟ゲンカ!後深草VS亀山

幕府が北条執権政治が続いてる中、朝廷では88代後嵯峨上皇。4歳の息子後深草(89代)に天皇を譲り、弟恒仁親王を皇太子にして院政をはじめていた。が、後嵯峨は弟の恒仁親王をめちゃくちゃ可愛がっていて御深草より、恒仁親王に実権を譲りたかった。

後嵯峨は後深草が病気がちになったので、弟の恒仁親王に譲位させ1259年に90代亀山天皇誕生。御深草は上皇になった。さらに後深草に皇子がいるっつーのに、可愛い亀山のために後嵯峨法皇は、亀山天皇の息子を皇太子にしちゃった。もちろんおもしろくないのは兄の後深草。幕府に相談しちゃったのです。

幕府が調べた結果、後嵯峨は亀山を後継者にするつもりだってのがわかり実権は亀山が握ることに。後嵯峨が死んだ後、兄・後深草を飛び越えて「治天の君」となり息子を天皇にして1274年 91代後宇多天皇にした。が、怒り収まらない後深草は、幕府に色々と働きかけなんとか後宇多天皇の皇太子に自分の息子の熙仁親王を皇太子にさせた。でもこれも問題の先延ばしにすぎなかった。

亀山は後深草がうるさいから、とりあえずヤツの息子を皇太子にしてやったけど、その後は、自分の系統にするつもりでいたし、後深草は、自分の息子を皇太子にして「うるさい父・後嵯峨もいないし、これからはオレの思い通りにやるぜ!」とやる気マンマンだし。以後、後深草&亀山の後継ぎ争いは続き、取り巻きの貴族も分裂していくのです。

後深草系統が、持明院統(じみょういんとう)といい、のちの北朝

亀山系統が、大覚寺統(だいかくじとう)といい、のちの南朝

この2つは泥沼化のバトルを繰り広げるが、軍事力がなかったため何かと幕府を自分トコの味方にしようと働きかけるが、幕府はあくまでも中立な立場をとっていた。


1274年 文永の役(ぶんえいのえき) フビライ・ハン

この頃、チンギス・ハンがモンゴル帝国を造り周辺の国をやっつけヨーロッパからアジアにまたがる大帝国になっていた。その孫、フビライ・ハンはモンゴル帝国の5代皇帝で1168年にお次は日本だ!と、高麗(朝鮮)の使者に大宰府へ手紙をもって行かせた。その手紙には「日本はモンゴルの属国(家来みたいなもん)になれ」と書いてあり当時の権力者である8代執権北条時宗は「なんで家来になんなきゃならんのじゃー!」とカンカンに怒って九州の防備を固めさせた。

1271年に、国名を「元」と変えたフビライ・ハンは、またも属国になれと言って来た。時宗はまたも無視。そしてとうとう1274年蒙古軍は日本へ攻撃開始対馬や壱岐はあっさり占領され、略奪の限りを尽くされまくった。そして翌日蒙古軍は、九州の政治の中心である大宰府へ攻撃しようと博多湾へ迫りました。そこで待機する日本軍と戦いが始まるのであります。

この頃、日本の戦い方マニュアルとして,まず「やぁやぁわれこそは○○なりー」と名乗ってから一騎打ちってのがルールだった。で、それが当たり前と思ってた日本軍は、「やぁやぁわれこそはー」と言って進み出たところ、たちまち蒙古の兵隊に取り囲まれ討ち取られてしまった。「そんなあほな!?」とびっくりした日本軍。長い間の戦いの習慣は、短時間では直せずにいました。

日本軍はなんてヤツラだ!と思っただろうけど、そんなの知るかの蒙古軍。また、日本では戦った後は名のある武将の首を取って首実検をしてた。首はその後の恩賞に必要だったからね。だけど、蒙古軍は首などもちろんとらずに死体をそのまんまにして進軍してきた。さらにみんなをビビらせたのはドラの音。馬なんかはあまりの大きな音にびっくりして馬を使ってる武士はめちゃくちゃ。

そしてさらに「てつはう」という鉄砲じゃないんだけど、火薬をつかった武器を使ってたので日本軍はこの新兵器にびっくり。その日1日は日本軍の大苦戦に終わってしまった。が、夜になると蒙古軍は夜襲を恐れたのと、不慣れな土地だってことでそのまま陸上で野営せずに一度船に戻ってしまう。その時、海の上で暴雨風がおき、軍船の多くが沈没してしまうといういわゆる「神風」が吹きました。これが文永の役です。


1281年 弘安の役(こうあんのえき) またも蒙古軍やってきた

「神風のおかげじゃー!」と日本軍大喜び。が、またも1281年に大軍をひきつれてやってきた。文永の役と同じように、博多湾にやってきたて上陸しようとしたんだけど今回は日本軍もちゃんと防壁を作っていた。また日本軍は果敢に戦いに挑み、蒙古軍はここを突破できずいったいん壱岐へ退き、別の軍が来てから全面攻撃をかけようとしました。で、別軍到着。さぁ、作戦会議!ってところにまたも「神風」が吹く。14万人の大軍が残りわずか3万人になってしまい、日本は神風のおかげで蒙古軍の来襲を防ぐことができました。


8代執権 北条時宗大忙し

蒙古軍が去った後も、時宗は超ハードスケジュールの日々。またいつ蒙古軍が攻めてくるかわかんないので、西日本の整備を整えなきゃなんないし、戦いに参加して頑張った武士らへの恩賞もあげなきゃなんないし。この戦いには、御家人だけじゃなく寺社や貴族に使える人たちも動員したのでこっちにも恩賞をあげなきゃなんない。問題山積みじゃー!と超多忙の時宗

とうとう1284年に 34歳でストレスで過労死してしまいました。幕府は御家人らに恩賞をあげることができませんでした。今までは国内で戦っていたので、負けたほうの土地を奪い恩賞として与えることができたんだけど、今回の敵は外国から。そのため勝っても与える土地がなく、御家人らはただ働き。そのため御家人らの不満が募り、幕府の基盤がぐらつきはじめるのです。

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