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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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1331年 あきらめないゾ!元弘の変(げんこう)

着々と倒幕のために頑張っていた後醍醐天皇。いまこそ2度目のチャーンス!!と、またも討幕にむけ動き始めた。が、またまた裏切り。今度は後醍醐天皇の側近が幕府に計画をばらした。ばらしたのは重臣である吉田定房。が、この人、密告者だというのにその後もずーっと後醍醐天皇に仕えている。

多分、定房は今回も計画がバレちゃうだろうな・・・。まだ今は挙兵する時期じゃないし。だったら幕府から暴露される前に密告の形で処理しといたほうが軽い罪になるかもしれんなぁ。と思ったのかもしれない。真実はわかりませんが、とりあえず幕府はすぐに兵を出して、後醍醐天皇の側近らを捕まえた。これはもう逃げれないなと、後醍醐天皇は8月24日に三種の神器を持ったまま笠置山に入り、9月に楠木正成が兵を出しました。

この間に、持明院統の後伏見上皇が、皇太子の量仁親王を天皇にしちゃいました。で、光厳天皇が誕生。後醍醐上皇のいる笠置山はあっけなく負けてしまい三種の神器は光厳天皇の手に。幕府は「今度は許さんぞー!」と、文観ら僧侶を島流しし、後醍醐天皇は隠岐(島根県)に1332年 島流しにされちゃいました。そしてこの時、数多くの妻・妾の中からただ一人隠岐についていったのが阿野廉子だったのです。そして後醍醐天皇らは隠岐で監視付きの生活を送ることとなりました。


後醍醐天皇と楠木正成の出会い

後醍醐天皇が笠置山に入ったときに、楠木正成が挙兵します。笠置山に入ったある晩、後醍醐天皇は夢をみました。それは一本の大きな木があって、不思議なことに南側だけ枝や葉っぱがたくさん。後醍醐天皇が近づくと、空から2人の美しい子供がやってきて「今、アナタ様を助ける人がいます」と言ったのです。

ここで後醍醐天皇は目を覚まして考えた。「オレを助けてくれる人・・・?確か木の南側だけ葉っぱが茂っていたな。木に南・・・・漢字で書くと「楠」だな。」そして後醍醐天皇は「このへんに楠という人はいるか?」と聞きました。文観という僧が「あぁ、山のふもとの河内に楠木正成という武士がおります」と答えたのです。

後醍醐天皇は「そいつだ!」と思い、すぐこっちにくるよう命じました。こうして楠木正成は後醍醐天皇に召しだされることとなったのです。正成は河内出身の「悪党」と言われています。「悪党」とは当時の社会のあぶれ者で、強盗やバクチをして暮らしていました。正成がこの「悪党」かどうかははっきりとしていませんが、つながりはあったそうです。


幕府は内紛だらけ

一安心した幕府だけど、またもや内紛。今度は北条高時が、長崎高資が家来のくせに北条家よりえばってるのが絶えられん!!と、権力を取り戻そうとバトル。が、これは長崎高資の勝ち。関係してた人なんかは島流しにあい、高時は知らん振りを決め込みなんとかセーフ。そんな中、楠木正成らが隠岐に流された後醍醐天皇のために兵を出したのです。

幕府は「たとえ小さな勢力でもこの際反乱軍を徹底的に叩き潰そう!北条の力がいかに強いかを世に知らしめよう!」と全国に天皇討伐のために出陣せよ!と号令したのです。そしてこの号令は足利尊氏・新田義貞のもとへもきました。


悩める尊氏「オレ、どうすればいいんだろ?」

幕府から出陣しろ!という命令がきた尊氏。さっそく直義・高師直に「どうする??」と相談しました。2人は「今はまだ北条に反旗を翻す時期ではない。こないだみたく何もしないで静観してたら、今度は鎌倉から幕府軍が怒ってやってきちゃうだろうし、俺らのことを嫌っている新田もここぞとばかり幕府軍に加わっちゃいますヨ!とりあえず北条の言いなりになってた方がいい」という意見でした。

ところが尊氏らにとって出陣どころじゃない事件がおきてしまったのです。それは父・貞氏の急死でした。尊氏らは「父の死を利用するのは気がひけるけど、今回は喪に服すということで出陣するのをやめよう」ということに。ですが幕府はそれを許しませんでした。

「ご遺族が喪に服したい気持ちもわかりますが、天皇謀反に加わる武士が多く幕府は大変なことになっている。北条家と親密な関係にある足利家の出陣は欠くことはできない。辛いだろうが出陣の中止は認められない」というものでした。尊氏は「ひどい!」と純粋に怒りました。高師直はニヤリと笑いながら「北条殿はうすうすわしらを疑っておるな」と言いました。

そして毎日のように「ただちに出陣しろ!」という催促がきたのです。尊氏は「父の死から15日しかたたぬのに出陣しろとは!北条は人の道に外れたヤツラだ!」と激怒。ですが逆らうこともできず、尊氏らは赤坂城攻撃に参加するのです。


悪党楠木正成 幕府ビックリのゲリラ戦

後醍醐天皇の命令を受けた楠木正成がまず入ったのは赤坂城でした。ここで正成は当時としては考えられないゲリラ戦を繰り広げるのです。幕府は2万の大軍を率いて赤坂城にやってきました。正成は150騎を城外に出して潜伏させ、残りの200人を城内に残しました。そこに2万の幕府軍が鬨の声をあげてやってきましたが、城からはうんともすんとも言わない。あれ?と思った幕府軍が近くまでやってくると一斉に頭上から弓を射たり石を投げたり。

幕府軍はびっくりして「とりあえず軍議を開くか」と武具を外し始めると、そこへノラリクラリと潜伏していた兵がやってきた。幕府はあまりののんびりさに「味方かな?」と思っていると、近くまで来た正成の兵が突然襲い掛かってきたのでした。幕府軍はビックリ仰天!四方八方逃げ回り、幕府軍は敗走したのでした。対策を練り直した幕府軍がまたもやってきました。

すると今度は煮えたぎる熱湯をひしゃくで浴びせまくって、耐えられなくなった幕府兵はまたも逃げちゃったのです。幕府軍は「下手に動くと、何を考えてるのかわかんないような奇策で襲い掛かってくる。」と赤坂城のような小さな城も抜けないことをムカムカしていつつも、慎重になりまくっていました。この時、尊氏も参加していました。ここで楠木正成を知り、「敵ながらあっぱれだ!」と褒めていたそうです。

対する正成はというと、今までは奇策で乗り越えてきたけど、さすがに幕府の大軍相手に限界がある。なんといっても加勢がないのです。ここで正成は考えた。信頼できる家臣を呼び「正成が討ち死にしたという噂を広めろ」といったのです。そして作ってあった抜け穴から皆を逃がし、20人ほどの兵の死骸を燃やし、赤坂城は落城したのです。「正成が死んだらしい」とういニュースは瞬く間に世間に広がりました。

死んだらしいというニュースを聞いた六波羅は、もしかしたら生きてるのかもしれないと、徹底的に探索の軍を出しました。その中で尊氏だけが「乱が静まったんだから帰らせてもらう」と六波羅に届け出たのです。多くの武士は北条が勢いを増してきたので、ここでさっさかと帰って幕府に睨まれたらやばいかなぁと計算しており、幕府から「もう帰ってもいいよ」という許可が降りるまで京都にいた方が得策だ!と考えていました。そんな中、尊氏だけが堂々と帰国していったのです。

これに多くの武士らが「さすがは足利殿だ。やることが他の武士とは違う!」と尊敬の目で見られることとなったのです。


正成死んだんじゃないの?またも幕府ビックリ

後醍醐天皇が隠岐に流された1332年の冬。正成が再び出現しました。正成率いる500騎が赤坂城を奪回したのです。死んでると思っていた正成がやってきたため、赤坂城の兵らはビックリして降参しちゃったのでした。勢いに乗った正成らは次々と近隣の制圧に乗り出しました。河内や和和泉一帯をゲットし、摂津へ進出!ということに。焦った幕府は六波羅を摂津に向かわせ、天王寺の合戦が始まりました。

六波羅は兵の少ない正成勢をみくびって、敗走していく正成らを深追いしすぎたのがいけなかった。気がついた時にはすでに正成らの伏兵に包囲され五千騎の六波羅勢は半数を失ってしまったのです。幕府はさらに援軍を差し向けましたが、その頃には正成勢は姿を消していました。天王寺一帯をとりあえず占拠した幕府ですが、正成らのゲリラ部隊に悩まされ続け、ついに撤退したそうです。 


正成 千早城のゲリラ戦 

この頃正成とその主力らは赤坂城の南にある千早城に戻っていました。幕府は吉野山にいる後醍醐天皇の三子護良親王と、赤坂城を攻撃し、とうとうこの二つは幕府の手に。残るは千早城のみとなりました。幕府の全軍が千早城攻めに加わったのです。全軍相手に挑む千早城にはわずか1000人が立て籠もっているだけでした。天下の幕府軍を相手に孤立無援の戦いをすることとなったのです。

正成は「藁人形」を作り、甲冑をつけて武者に見せかけました。そしてまだ薄暗い夜明けに城外に200名ほど兵を出し、城外・城内とも一斉に鬨の声を上げたのです。幕府軍は正成兵が外に出たな!と判断し、多数の幕府軍がやってきました。城外にいた200名ほどの兵は矢を飛ばしながら城内に戻り、幕府軍は薄暗いため勘違いし、藁人形めがけて突っ込んでいくのです。

そこへ断崖の上から大きな石を落としたり、城から矢を射たり。幕府軍は大慌てとなるのです。「もう城には絶対近寄らないほうがいい!」兵らはそう決めました。が、天下の幕府軍がいつまでも千早城に手間取っていては情勢が悪くなる!幕府がだらしないと世間に思われちゃうだろ!と、幕閣に激を飛ばされやむなく攻略を開始しましたが、正成らのゲリラ戦法にことごとく負けまくってしまったのです。そしてなんと千早城は5月まで持ちこたえたのでした。 


1333年 後醍醐天皇 島を脱出

後醍醐天皇は隠岐にいながら密かに本土と連絡を取り続けていました。そして幕府が揺らぎ始めているというニュースもちゃんとキャッチしていました。その頃、廉子の侍女が妊娠中で急に産気づいたのです。真夜中のことで、それを聞いた廉子はその侍女のもとへ行こうと輿を用意させました。

監視役は「こんな夜中に行かなくてもいい」と言ったんだけど「何を言うのです!馴染みのない場所で心細いに決まっております!すぐ行かせて下さい!」とお願い。そして輿に乗って暗闇の中へ・・・。そして廉子はこの輿の中に後醍醐天皇を乗せたのでした。廉子の脱出策は見事成功。後醍醐天皇は島を脱出できたのでした。そして「諸国の志ある武士達よ!私に協力して北条を倒せ」という密書を日本中に送り始めたのです。


尊氏 出陣を決める!

後醍醐天皇が日本中に密書を送っていた頃、執権を辞めた後も権力を持ち続けていた北条高時の使者が尊氏のもとへやってきました。「天皇を倒すための総大将になって出陣してただきたい」ということでした。尊氏は心はすでに後醍醐天皇の綸旨に従おうと決めていました。今こそ源氏の嫡流である足利家が天下を取る最大のチャンスなのです。

ですが、今この場でいきなり反乱を起こすのは得策ではない。「とりあえず京都まで行き、後醍醐天皇の元で寝返ったほうがいい」と直義にアドバイスされ「それもそうだな」と、とりあえず総大将になることを決めました。が、幕府を裏切る「大義名分」が必要です。普通に裏切っちゃったら「足利は北条とは親戚だし、しかもあんなに北条に優遇されてたくせに裏切った」という非難が必ず出てしまいます。

そのため尊氏は「今は病気だから、病気が治ってから討伐に行きたいので、誰か代わりの者を総大将にしてください」と幕府に伝えました。すると幕府は「ご病気は気の毒ですが、武士達に人気のある尊氏殿でなければ総大将は務まらない。無理してでも総大将になっていただきたい」と言って来たのです。

尊氏は「幕府はこないだも父が死んだばかりだというのに出陣させた。今回は病気なのにそれでも出陣しろと言う。なんてひどいヤツラだ」と幕府を非難する名目ができたのです。ちなみにこれも直義と高師直の作戦でした。


1333年 3月27日 焦る尊氏!妻子が人質になる

鎌倉へ向かった尊氏は、北条高時と対面しました。高時は「幕府の中ではあなたが裏切るのではないか?と言っている者もおります。私はそれはないと否定していますが、信用できないという者が沢山おるのでお願いがあります。その疑いを晴らすべくあなたの妻と長男を鎌倉に置いといてください。」と言いました。

尊氏は大衝撃。「オレが裏切ったら千寿丸(のちの義詮)と妻は殺されるのか?」と弱気に。ですが直義が「奥さんは実家が北条だから大丈夫でしょう。千寿丸は源氏ゆかりの者らが必ず守ってくれます。」と、尊氏を説得。そして京都の六波羅探題へ向かったのです。 


足利尊氏 打倒幕府!

4月16日に京都についた尊氏。六波羅探題は総大将到着に大喜びしました。この頃になると天皇が日本中に飛ばした綸旨のおかげで、各地の武士らが立ち上がりまくっていました。播磨(兵庫)では赤松則村(のりむら)・肥後(熊本)では菊池武時・筑後(福岡)では原田種昭などが幕府軍と戦っていました。また楠木正成も護良親王も健在してました。六波羅では会議が開かれ、鎌倉から一緒にやってきた名越高家が赤松則村を討つことに。尊氏は後醍醐天皇のいる船上山を討つということに。

そして4月27日に京都を出発しました。すると出発してすぐに名超高家が赤松軍の襲撃に会い、全滅。大将の高家も戦死してしまったのです。高家はそこそこ有能な武士だったので、裏切る気でいる尊氏にとって強力な敵が消えたことはラッキーでした。そして尊氏は船上山にいる後醍醐天皇に「私は天皇につきます。許可を得次第、六波羅を攻撃いたします」という密書を送ったのです


朝廷大ヨロコビ!

尊氏からの密書を受け取った後醍醐天皇はもーーー大喜び!周りの人たちに「おい!あの足利がこっちに寝返ったぞ!」と密書を見せ大興奮。早速「私を京に迎えるため、六波羅を攻撃しろ」と尊氏のもとへ使者を送ったのです。29日。それを受けた尊氏は「これより京へ戻り六波羅を討つ!」と宣言したのです。びっくりする者もいましたが、だいたいが北条に愛想を尽かしていたため尊氏と一緒になって倒幕に向かう事となったのです。

京へ向かう尊氏軍のもとへ「ぜひ参加させてください!」と大勢の地方武士らが集まり、その数25000人に膨れ上がりました。 鎌倉幕府も大パニック! 「足利殿が敵になった!」というニュースを聞いた幕府はビックリ!さらに驚くことに5月2日に2人がいる家へ尊氏の密使がやってきて,、妻と千寿丸を助け出したのです。翌日2人が逃げたのを知った幕府は大騒ぎ。さらに名越が戦死したというニュースも入ってきたのです。

逃げ遅れたのが尊氏の子供である竹若。12・3歳くらいの息子なんだけど、山伏に変装して13人で逃げていたところ「怪しいヤツらがいる」と幕府に捕まり、質問攻めに合いまくり。返答に困った尊氏の叔父が突然馬上で切腹しちゃったため、竹若を含めた残り全員が殺されてしまいました。 


5月7日 六波羅探題滅亡 

六波羅は突然の足利尊氏の裏切りにびっくり!六波羅を率いている北条仲時&時益は、「おのれ尊氏!!」と悔しがりましたが、尊氏の実力を知っているだけにこの裏切りは大きな影響を与えてしまうこともわかっていた。仲時らは悩んだ。ここで死ぬか、鎌倉へ行くか。完全に包囲された六波羅。残ってるのはわずは1000騎。北条仲時らは、鎌倉へ行き再起を決意しました。

まず強行突破するための先陣に時益。門を開けた瞬間、逃がすか!!とやってくる敵を次々倒していくが、とうとう矢に当たり死んでしまった。仲時は後伏見上皇・花園上皇・光厳天皇らを連れてなんとか脱出。鎌倉へ急ぎました。が、鎌倉へ戻る途中に野伏に道を阻まれてしまったのです。

「ここにいるのは天の君であるぞ!弓を伏せお通ししろ!」というと、野伏は大笑いしながら「「運が尽きて落ちていく天の君をお通しするのはいいが、供の武士は馬や物を全て置いてからゆるゆるとお通り願おう」と野伏にバカにされまくったのです。さらにこの後も山賊や強盗・あぶれ者らが一行を待ち受けていました。

もう無理だと諦めた仲時は、ついてきてくれた家来に、「幕府はもうダメとわかっているのに、私についてきてくれたことを感謝する。その気持ちに報いるために、私の首を今ここで切れ!さすれば、そなた達は褒美がもらえるだろう」と言った。が、高橋時英ら部下達は「この先が冥土だからといって、見捨てるはずがありません。三途の川までお供いたします」と言って北条仲時ら280名は最後までともにし、討ち死にあるいは自害してここに六波羅探題は終わった。

両上皇と天皇は京都に送り返されました。そしてこの動きに合わせて新田義貞も挙兵したのです。 


5月8日 新田義貞挙兵!いざ鎌倉へ

足利尊氏・楠木正成にあわせ、打倒幕府!と挙兵したのが新田義貞。新田義貞の頃になると、領地を売んなきゃ喰っていけないってほどビンボー新田氏の流れをくんでる山名氏や里見氏なんかは本家である新田氏より出世しちゃってて、新田氏は屈辱的な思いをしていました。弱小なため、幕府内ではあまりいい待遇じゃなかったので、新田義貞は、新田家の名誉挽回のチャンスをうかがっていた。

「新田は足利に負けないほどの源氏の名門なんじゃ!」というプライドもあり、このままだと新田は足利の家臣だと思われてしまう・・・と言う不安もあった。野心家の義貞は何とかしたかった。足利を見下すことのできる権力を新田にもたらしたい。義貞は尊氏に対して強烈なライバル意識を持っていたのです。幕府はいつまでも新田をかまってくれないし。だったら朝廷についたほうがいいかもしれん!と義貞は考えました。

ですが新田だけで北条を破るのはまず無理。だったら北条氏滅亡までは尊氏と協力しないとヤバイ。あいつは必ず京都で幕府に反旗を翻すだろう。オレも遅れをとるわけにはいかん!あいつが京都で騒ぎを起こすあんらオレは鎌倉じゃぁーと義貞は考えたのです。そして義貞は兵を挙げ、多摩川付近で北条高時の弟の北条泰家らと遭遇して合戦に。なんとか勝利した義貞。その後、鎌倉へ!!!


抜け駆けはさせないぜ!尊氏の策は?

新田義貞が挙兵をし鎌倉攻めをする際に、なんと尊氏は鎌倉から救出した4歳の千寿丸(義詮)を家臣とともに行かせました。はっきりいって千寿丸(義詮)の兵はたいした活躍もできないくらいの人数だったんだけど、「尊氏の意を汲んだ軍が鎌倉攻めに加わること」が重要だったのです。尊氏は義貞が自分だけの兵で鎌倉を攻め落とすという形を避けたかったのです。

もし義貞が鎌倉を攻め落とし、北条氏を滅亡させたらその軍功はめちゃくちゃ素晴らしいものとなります。尊氏はそれだけは避けたかった。義詮の軍がちょっとでも加われば、義貞独自の行動ではないという形が出来上がるのです。この尊氏の考えは見事的中することに


5月15日 分倍河原(ぶばいがわら)の戦い

この頃幕府は六波羅探題が滅亡したことをまだ知りませんでした。義貞は入間川(埼玉県)・久米川(東村山市)と幕府の防衛軍をことごとく打ち破り進んできました。北条高時の弟 時興を総大将とする幕府軍は、何が何でも鎌倉入りだけは阻止しなければならない!と鎌倉街道に軍を進めました。そして両軍が激突したのが分倍河原(府中市)でした。

ここで義貞の援軍として三浦一族の太多和義勝率いる6000騎がやってきました。幕府軍はこれを自分のトコの援軍と勘違いしちゃったのです。この義勝軍が幕府軍に近づいてきて、突然鬨の声を上げたもんだから幕府軍は大慌て。鎌倉勢は譜代の家来が多数討死となってしまったのです。

この日幕府は分倍河原の敗戦と六波羅探題滅亡という二つの悲報を聞きました。幕府の命運は尽き始めていたのです。


稲村ガ崎 黄金の剣

分倍河原で幕府軍を破った義貞はとうとう18日に鎌倉に到着しました。天然の要塞である鎌倉に入れるのは7箇所しかなかった。幕府軍はこの7箇所を重点的に守ったのであります。義貞軍も下手に鎌倉に入っても後ろを閉ざされたら袋の鼠になってしまうため、義貞は海からの鎌倉突入を考え始めたのです。

ここであのエピソードがおきます。なかなか鎌倉入りできない義貞軍は、稲村ガ崎に向かう。稲村ガ崎で義貞が竜神に黄金の剣を投げ願ったら、潮が引いたそうです。黄金の剣のおかげかどうかはわかりませんが、潮はいつもより早く引きました。そして義貞軍が鎌倉へ突入したのです!


鎌倉幕府滅亡 

鎌倉入りした義貞軍は、稲村ガ崎から極楽寺坂・化粧坂とがんがん進軍。義貞軍は中心部へ行くべく家々に火をつけまくって鎌倉は火の海となった。各所を守っていた幕府軍もこうなっては守るのも無意味となり、鎌倉中が炎に巻き込まれ混乱のるつぼとなりました。北条高時は小町の自宅にて敗戦が決定的とわかると、先祖の功績が灰になるのを絶望的な気持ちで見ながら、滑川を東にわたって東勝寺へ。

そして東勝寺にて一族や家来870名と自害したのです。5月22日 鎌倉幕府が滅亡した。高時31歳でした。そして鎌倉幕府は滅亡したのです。ちなみに世間では「尊氏の嫡子・千寿丸はわずか4歳でありながら、新田義貞を率いて鎌倉を滅ぼした」と言われるように。義貞が千寿丸の「オマケ」と周りからは見られてしまい、義貞は憤慨しまくるのでした。

ですが実際「新田義貞」の名前は売れていなかったので、義貞の名では何万という大軍を集めることはできませんでした。「尊氏の息子がいる」ということによって、多くの武士が戦いに参戦してきたのも事実なのです。これは義貞に屈辱感を与えまくりました。「なんでオレよりチビッコの千寿丸の方が人気あるんじゃ!足利ななんぼのもんじゃ!」と恨みまくり。指揮官は自分でも「総大将」は座ってるだけのチビッコ千寿丸ということになってしまっていたのです。

ちなみに、高時が自害したとこに「腹切やぐら」という心霊スポットがあります。鎌倉在住だった管理人は、とある夜、高校生の頃友達と怖いもの見たさで行ったことありますが、不気味でした。

 
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