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  <title>ザ歴史！彼方が忘れている日本の歴史がここに！</title>
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  <description> 歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。</description>
  <lastBuildDate>Sun, 13 Dec 2009 02:56:35 GMT</lastBuildDate>
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    <title>鎌倉幕府滅亡</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1331年　あきらめないゾ！元弘の変（げんこう）<br />
<br />
</font>着々と倒幕のために頑張っていた後醍醐天皇。いまこそ2度目のチャーンス！！と、またも討幕にむけ動き始めた。が、またまた裏切り。今度は後醍醐天皇の側近が幕府に計画をばらした。ばらしたのは重臣である吉田定房。が、この人、密告者だというのにその後もずーっと後醍醐天皇に仕えている。<br />
<br />
多分、定房は今回も計画がバレちゃうだろうな・・・。まだ今は挙兵する時期じゃないし。だったら幕府から暴露される前に密告の形で処理しといたほうが軽い罪になるかもしれんなぁ。と思ったのかもしれない。真実はわかりませんが、とりあえず幕府はすぐに兵を出して、後醍醐天皇の側近らを捕まえた。これはもう逃げれないなと、後醍醐天皇は8月24日に三種の神器を持ったまま笠置山に入り、9月に楠木正成が兵を出しました。<br />
<br />
この間に、持明院統の後伏見上皇が、皇太子の量仁親王を天皇にしちゃいました。で、光厳天皇が誕生。後醍醐上皇のいる笠置山はあっけなく負けてしまい三種の神器は光厳天皇の手に。幕府は「今度は許さんぞー！」と、文観ら僧侶を島流しし、後醍醐天皇は隠岐（島根県）に1332年　島流しにされちゃいました。そしてこの時、数多くの妻･妾の中からただ一人隠岐についていったのが阿野廉子だったのです。そして後醍醐天皇らは隠岐で監視付きの生活を送ることとなりました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">後醍醐天皇と楠木正成の出会い<br />
<br />
</font>後醍醐天皇が笠置山に入ったときに、楠木正成が挙兵します。笠置山に入ったある晩、後醍醐天皇は夢をみました。それは一本の大きな木があって、不思議なことに南側だけ枝や葉っぱがたくさん。後醍醐天皇が近づくと、空から2人の美しい子供がやってきて「今、アナタ様を助ける人がいます」と言ったのです。<br />
<br />
ここで後醍醐天皇は目を覚まして考えた。「オレを助けてくれる人・・・？確か木の南側だけ葉っぱが茂っていたな。木に南・・・・漢字で書くと「楠」だな。」そして後醍醐天皇は「このへんに楠という人はいるか？」と聞きました。文観という僧が「あぁ、山のふもとの河内に楠木正成という武士がおります」と答えたのです。<br />
<br />
後醍醐天皇は「そいつだ！」と思い、すぐこっちにくるよう命じました。こうして楠木正成は後醍醐天皇に召しだされることとなったのです。正成は河内出身の「悪党」と言われています。「悪党」とは当時の社会のあぶれ者で、強盗やバクチをして暮らしていました。正成がこの「悪党」かどうかははっきりとしていませんが、つながりはあったそうです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">幕府は内紛だらけ<br />
<br />
</font>一安心した幕府だけど、またもや内紛。今度は北条高時が、長崎高資が家来のくせに北条家よりえばってるのが絶えられん！！と、権力を取り戻そうとバトル。が、これは長崎高資の勝ち。関係してた人なんかは島流しにあい、高時は知らん振りを決め込みなんとかセーフ。そんな中、楠木正成らが隠岐に流された後醍醐天皇のために兵を出したのです。<br />
<br />
幕府は「たとえ小さな勢力でもこの際反乱軍を徹底的に叩き潰そう！北条の力がいかに強いかを世に知らしめよう！」と全国に天皇討伐のために出陣せよ！と号令したのです。そしてこの号令は足利尊氏・新田義貞のもとへもきました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">悩める尊氏「オレ、どうすればいいんだろ？」<br />
<br />
</font>幕府から出陣しろ！という命令がきた尊氏。さっそく直義・高師直に「どうする？？」と相談しました。2人は「今はまだ北条に反旗を翻す時期ではない。こないだみたく何もしないで静観してたら、今度は鎌倉から幕府軍が怒ってやってきちゃうだろうし、俺らのことを嫌っている新田もここぞとばかり幕府軍に加わっちゃいますヨ！とりあえず北条の言いなりになってた方がいい」という意見でした。<br />
<br />
ところが尊氏らにとって出陣どころじゃない事件がおきてしまったのです。それは父・貞氏の急死でした。尊氏らは「父の死を利用するのは気がひけるけど、今回は喪に服すということで出陣するのをやめよう」ということに。ですが幕府はそれを許しませんでした。<br />
<br />
「ご遺族が喪に服したい気持ちもわかりますが、天皇謀反に加わる武士が多く幕府は大変なことになっている。北条家と親密な関係にある足利家の出陣は欠くことはできない。辛いだろうが出陣の中止は認められない」というものでした。尊氏は「ひどい！」と純粋に怒りました。高師直はニヤリと笑いながら「北条殿はうすうすわしらを疑っておるな」と言いました。<br />
<br />
そして毎日のように「ただちに出陣しろ！」という催促がきたのです。尊氏は「父の死から15日しかたたぬのに出陣しろとは！北条は人の道に外れたヤツラだ！」と激怒。ですが逆らうこともできず、尊氏らは赤坂城攻撃に参加するのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">悪党楠木正成　幕府ビックリのゲリラ戦<br />
<br />
</font>後醍醐天皇の命令を受けた楠木正成がまず入ったのは赤坂城でした。ここで正成は当時としては考えられないゲリラ戦を繰り広げるのです。幕府は２万の大軍を率いて赤坂城にやってきました。正成は150騎を城外に出して潜伏させ、残りの２００人を城内に残しました。そこに２万の幕府軍が鬨の声をあげてやってきましたが、城からはうんともすんとも言わない。あれ？と思った幕府軍が近くまでやってくると一斉に頭上から弓を射たり石を投げたり。<br />
<br />
幕府軍はびっくりして「とりあえず軍議を開くか」と武具を外し始めると、そこへノラリクラリと潜伏していた兵がやってきた。幕府はあまりののんびりさに「味方かな？」と思っていると、近くまで来た正成の兵が突然襲い掛かってきたのでした。幕府軍はビックリ仰天！四方八方逃げ回り、幕府軍は敗走したのでした。対策を練り直した幕府軍がまたもやってきました。<br />
<br />
すると今度は煮えたぎる熱湯をひしゃくで浴びせまくって、耐えられなくなった幕府兵はまたも逃げちゃったのです。幕府軍は「下手に動くと、何を考えてるのかわかんないような奇策で襲い掛かってくる。」と赤坂城のような小さな城も抜けないことをムカムカしていつつも、慎重になりまくっていました。この時、尊氏も参加していました。ここで楠木正成を知り、「敵ながらあっぱれだ！」と褒めていたそうです。<br />
<br />
対する正成はというと、今までは奇策で乗り越えてきたけど、さすがに幕府の大軍相手に限界がある。なんといっても加勢がないのです。ここで正成は考えた。信頼できる家臣を呼び「正成が討ち死にしたという噂を広めろ」といったのです。そして作ってあった抜け穴から皆を逃がし、20人ほどの兵の死骸を燃やし、赤坂城は落城したのです。「正成が死んだらしい」とういニュースは瞬く間に世間に広がりました。<br />
<br />
死んだらしいというニュースを聞いた六波羅は、もしかしたら生きてるのかもしれないと、徹底的に探索の軍を出しました。その中で尊氏だけが「乱が静まったんだから帰らせてもらう」と六波羅に届け出たのです。多くの武士は北条が勢いを増してきたので、ここでさっさかと帰って幕府に睨まれたらやばいかなぁと計算しており、幕府から「もう帰ってもいいよ」という許可が降りるまで京都にいた方が得策だ！と考えていました。そんな中、尊氏だけが堂々と帰国していったのです。<br />
<br />
これに多くの武士らが「さすがは足利殿だ。やることが他の武士とは違う！」と尊敬の目で見られることとなったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">正成死んだんじゃないの？またも幕府ビックリ<br />
<br />
</font>後醍醐天皇が隠岐に流された１３３２年の冬。正成が再び出現しました。正成率いる500騎が赤坂城を奪回したのです。死んでると思っていた正成がやってきたため、赤坂城の兵らはビックリして降参しちゃったのでした。勢いに乗った正成らは次々と近隣の制圧に乗り出しました。河内や和和泉一帯をゲットし、摂津へ進出！ということに。焦った幕府は六波羅を摂津に向かわせ、天王寺の合戦が始まりました。<br />
<br />
六波羅は兵の少ない正成勢をみくびって、敗走していく正成らを深追いしすぎたのがいけなかった。気がついた時にはすでに正成らの伏兵に包囲され五千騎の六波羅勢は半数を失ってしまったのです。幕府はさらに援軍を差し向けましたが、その頃には正成勢は姿を消していました。天王寺一帯をとりあえず占拠した幕府ですが、正成らのゲリラ部隊に悩まされ続け、ついに撤退したそうです。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">正成　千早城のゲリラ戦&nbsp;<br />
<br />
</font>この頃正成とその主力らは赤坂城の南にある千早城に戻っていました。幕府は吉野山にいる後醍醐天皇の三子護良親王と、赤坂城を攻撃し、とうとうこの二つは幕府の手に。残るは千早城のみとなりました。幕府の全軍が千早城攻めに加わったのです。全軍相手に挑む千早城にはわずか１０００人が立て籠もっているだけでした。天下の幕府軍を相手に孤立無援の戦いをすることとなったのです。<br />
<br />
正成は「藁人形」を作り、甲冑をつけて武者に見せかけました。そしてまだ薄暗い夜明けに城外に２００名ほど兵を出し、城外・城内とも一斉に鬨の声を上げたのです。幕府軍は正成兵が外に出たな！と判断し、多数の幕府軍がやってきました。城外にいた２００名ほどの兵は矢を飛ばしながら城内に戻り、幕府軍は薄暗いため勘違いし、藁人形めがけて突っ込んでいくのです。<br />
<br />
そこへ断崖の上から大きな石を落としたり、城から矢を射たり。幕府軍は大慌てとなるのです。「もう城には絶対近寄らないほうがいい！」兵らはそう決めました。が、天下の幕府軍がいつまでも千早城に手間取っていては情勢が悪くなる！幕府がだらしないと世間に思われちゃうだろ！と、幕閣に激を飛ばされやむなく攻略を開始しましたが、正成らのゲリラ戦法にことごとく負けまくってしまったのです。そしてなんと千早城は５月まで持ちこたえたのでした。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">１３３３年　後醍醐天皇　島を脱出<br />
<br />
</font>後醍醐天皇は隠岐にいながら密かに本土と連絡を取り続けていました。そして幕府が揺らぎ始めているというニュースもちゃんとキャッチしていました。その頃、廉子の侍女が妊娠中で急に産気づいたのです。真夜中のことで、それを聞いた廉子はその侍女のもとへ行こうと輿を用意させました。<br />
<br />
監視役は「こんな夜中に行かなくてもいい」と言ったんだけど「何を言うのです！馴染みのない場所で心細いに決まっております！すぐ行かせて下さい！」とお願い。そして輿に乗って暗闇の中へ・・・。そして廉子はこの輿の中に後醍醐天皇を乗せたのでした。廉子の脱出策は見事成功。後醍醐天皇は島を脱出できたのでした。そして「諸国の志ある武士達よ！私に協力して北条を倒せ」という密書を日本中に送り始めたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">尊氏　出陣を決める！<br />
<br />
</font>後醍醐天皇が日本中に密書を送っていた頃、執権を辞めた後も権力を持ち続けていた北条高時の使者が尊氏のもとへやってきました。「天皇を倒すための総大将になって出陣してただきたい」ということでした。尊氏は心はすでに後醍醐天皇の綸旨に従おうと決めていました。今こそ源氏の嫡流である足利家が天下を取る最大のチャンスなのです。<br />
<br />
ですが、今この場でいきなり反乱を起こすのは得策ではない。「とりあえず京都まで行き、後醍醐天皇の元で寝返ったほうがいい」と直義にアドバイスされ「それもそうだな」と、とりあえず総大将になることを決めました。が、幕府を裏切る「大義名分」が必要です。普通に裏切っちゃったら「足利は北条とは親戚だし、しかもあんなに北条に優遇されてたくせに裏切った」という非難が必ず出てしまいます。<br />
<br />
そのため尊氏は「今は病気だから、病気が治ってから討伐に行きたいので、誰か代わりの者を総大将にしてください」と幕府に伝えました。すると幕府は「ご病気は気の毒ですが、武士達に人気のある尊氏殿でなければ総大将は務まらない。無理してでも総大将になっていただきたい」と言って来たのです。<br />
<br />
尊氏は「幕府はこないだも父が死んだばかりだというのに出陣させた。今回は病気なのにそれでも出陣しろと言う。なんてひどいヤツラだ」と幕府を非難する名目ができたのです。ちなみにこれも直義と高師直の作戦でした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1333年　3月27日　焦る尊氏！妻子が人質になる<br />
<br />
</font>鎌倉へ向かった尊氏は、北条高時と対面しました。高時は「幕府の中ではあなたが裏切るのではないか？と言っている者もおります。私はそれはないと否定していますが、信用できないという者が沢山おるのでお願いがあります。その疑いを晴らすべくあなたの妻と長男を鎌倉に置いといてください。」と言いました。<br />
<br />
尊氏は大衝撃。「オレが裏切ったら千寿丸（のちの義詮）と妻は殺されるのか？」と弱気に。ですが直義が「奥さんは実家が北条だから大丈夫でしょう。千寿丸は源氏ゆかりの者らが必ず守ってくれます。」と、尊氏を説得。そして京都の六波羅探題へ向かったのです。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">足利尊氏　打倒幕府！<br />
<br />
</font>4月16日に京都についた尊氏。六波羅探題は総大将到着に大喜びしました。この頃になると天皇が日本中に飛ばした綸旨のおかげで、各地の武士らが立ち上がりまくっていました。播磨（兵庫）では赤松則村（のりむら）・肥後（熊本）では菊池武時・筑後（福岡）では原田種昭などが幕府軍と戦っていました。また楠木正成も護良親王も健在してました。六波羅では会議が開かれ、鎌倉から一緒にやってきた名越高家が赤松則村を討つことに。尊氏は後醍醐天皇のいる船上山を討つということに。<br />
<br />
そして4月27日に京都を出発しました。すると出発してすぐに名超高家が赤松軍の襲撃に会い、全滅。大将の高家も戦死してしまったのです。高家はそこそこ有能な武士だったので、裏切る気でいる尊氏にとって強力な敵が消えたことはラッキーでした。そして尊氏は船上山にいる後醍醐天皇に「私は天皇につきます。許可を得次第、六波羅を攻撃いたします」という密書を送ったのです<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">朝廷大ヨロコビ！<br />
<br />
</font>尊氏からの密書を受け取った後醍醐天皇はもーーー大喜び！周りの人たちに「おい！あの足利がこっちに寝返ったぞ！」と密書を見せ大興奮。早速「私を京に迎えるため、六波羅を攻撃しろ」と尊氏のもとへ使者を送ったのです。29日。それを受けた尊氏は「これより京へ戻り六波羅を討つ！」と宣言したのです。びっくりする者もいましたが、だいたいが北条に愛想を尽かしていたため尊氏と一緒になって倒幕に向かう事となったのです。<br />
<br />
京へ向かう尊氏軍のもとへ「ぜひ参加させてください！」と大勢の地方武士らが集まり、その数25000人に膨れ上がりました。 鎌倉幕府も大パニック！ 「足利殿が敵になった！」というニュースを聞いた幕府はビックリ！さらに驚くことに5月2日に2人がいる家へ尊氏の密使がやってきて,、妻と千寿丸を助け出したのです。翌日2人が逃げたのを知った幕府は大騒ぎ。さらに名越が戦死したというニュースも入ってきたのです。<br />
<br />
逃げ遅れたのが尊氏の子供である竹若。１２・３歳くらいの息子なんだけど、山伏に変装して13人で逃げていたところ「怪しいヤツらがいる」と幕府に捕まり、質問攻めに合いまくり。返答に困った尊氏の叔父が突然馬上で切腹しちゃったため、竹若を含めた残り全員が殺されてしまいました。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">5月７日　六波羅探題滅亡</font>&nbsp;<br />
<br />
六波羅は突然の足利尊氏の裏切りにびっくり！六波羅を率いている北条仲時＆時益は、「おのれ尊氏！！」と悔しがりましたが、尊氏の実力を知っているだけにこの裏切りは大きな影響を与えてしまうこともわかっていた。仲時らは悩んだ。ここで死ぬか、鎌倉へ行くか。完全に包囲された六波羅。残ってるのはわずは1000騎。北条仲時らは、鎌倉へ行き再起を決意しました。<br />
<br />
まず強行突破するための先陣に時益。門を開けた瞬間、逃がすか！！とやってくる敵を次々倒していくが、とうとう矢に当たり死んでしまった。仲時は後伏見上皇・花園上皇・光厳天皇らを連れてなんとか脱出。鎌倉へ急ぎました。が、鎌倉へ戻る途中に野伏に道を阻まれてしまったのです。<br />
<br />
「ここにいるのは天の君であるぞ！弓を伏せお通ししろ！」というと、野伏は大笑いしながら「「運が尽きて落ちていく天の君をお通しするのはいいが、供の武士は馬や物を全て置いてからゆるゆるとお通り願おう」と野伏にバカにされまくったのです。さらにこの後も山賊や強盗・あぶれ者らが一行を待ち受けていました。<br />
<br />
もう無理だと諦めた仲時は、ついてきてくれた家来に、「幕府はもうダメとわかっているのに、私についてきてくれたことを感謝する。その気持ちに報いるために、私の首を今ここで切れ！さすれば、そなた達は褒美がもらえるだろう」と言った。が、高橋時英ら部下達は「この先が冥土だからといって、見捨てるはずがありません。三途の川までお供いたします」と言って北条仲時ら280名は最後までともにし、討ち死にあるいは自害してここに六波羅探題は終わった。<br />
<br />
両上皇と天皇は京都に送り返されました。そしてこの動きに合わせて新田義貞も挙兵したのです。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">5月8日　新田義貞挙兵！いざ鎌倉へ<br />
<br />
</font>足利尊氏・楠木正成にあわせ、打倒幕府！と挙兵したのが新田義貞。新田義貞の頃になると、領地を売んなきゃ喰っていけないってほどビンボー新田氏の流れをくんでる山名氏や里見氏なんかは本家である新田氏より出世しちゃってて、新田氏は屈辱的な思いをしていました。弱小なため、幕府内ではあまりいい待遇じゃなかったので、新田義貞は、新田家の名誉挽回のチャンスをうかがっていた。<br />
<br />
「新田は足利に負けないほどの源氏の名門なんじゃ！」というプライドもあり、このままだと新田は足利の家臣だと思われてしまう・・・と言う不安もあった。野心家の義貞は何とかしたかった。足利を見下すことのできる権力を新田にもたらしたい。義貞は尊氏に対して強烈なライバル意識を持っていたのです。幕府はいつまでも新田をかまってくれないし。だったら朝廷についたほうがいいかもしれん！と義貞は考えました。<br />
<br />
ですが新田だけで北条を破るのはまず無理。だったら北条氏滅亡までは尊氏と協力しないとヤバイ。あいつは必ず京都で幕府に反旗を翻すだろう。オレも遅れをとるわけにはいかん！あいつが京都で騒ぎを起こすあんらオレは鎌倉じゃぁーと義貞は考えたのです。そして義貞は兵を挙げ、多摩川付近で北条高時の弟の北条泰家らと遭遇して合戦に。なんとか勝利した義貞。その後、鎌倉へ！！！<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">抜け駆けはさせないぜ！尊氏の策は？<br />
<br />
</font>新田義貞が挙兵をし鎌倉攻めをする際に、なんと尊氏は鎌倉から救出した4歳の千寿丸（義詮）を家臣とともに行かせました。はっきりいって千寿丸（義詮）の兵はたいした活躍もできないくらいの人数だったんだけど、「尊氏の意を汲んだ軍が鎌倉攻めに加わること」が重要だったのです。尊氏は義貞が自分だけの兵で鎌倉を攻め落とすという形を避けたかったのです。<br />
<br />
もし義貞が鎌倉を攻め落とし、北条氏を滅亡させたらその軍功はめちゃくちゃ素晴らしいものとなります。尊氏はそれだけは避けたかった。義詮の軍がちょっとでも加われば、義貞独自の行動ではないという形が出来上がるのです。この尊氏の考えは見事的中することに<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">5月15日　分倍河原（ぶばいがわら）の戦い<br />
<br />
</font>この頃幕府は六波羅探題が滅亡したことをまだ知りませんでした。義貞は入間川（埼玉県）・久米川（東村山市）と幕府の防衛軍をことごとく打ち破り進んできました。北条高時の弟　時興を総大将とする幕府軍は、何が何でも鎌倉入りだけは阻止しなければならない！と鎌倉街道に軍を進めました。そして両軍が激突したのが分倍河原（府中市）でした。<br />
<br />
ここで義貞の援軍として三浦一族の太多和義勝率いる6000騎がやってきました。幕府軍はこれを自分のトコの援軍と勘違いしちゃったのです。この義勝軍が幕府軍に近づいてきて、突然鬨の声を上げたもんだから幕府軍は大慌て。鎌倉勢は譜代の家来が多数討死となってしまったのです。<br />
<br />
この日幕府は分倍河原の敗戦と六波羅探題滅亡という二つの悲報を聞きました。幕府の命運は尽き始めていたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">稲村ガ崎　黄金の剣<br />
<br />
</font>分倍河原で幕府軍を破った義貞はとうとう18日に鎌倉に到着しました。天然の要塞である鎌倉に入れるのは７箇所しかなかった。幕府軍はこの７箇所を重点的に守ったのであります。義貞軍も下手に鎌倉に入っても後ろを閉ざされたら袋の鼠になってしまうため、義貞は海からの鎌倉突入を考え始めたのです。<br />
<br />
ここであのエピソードがおきます。なかなか鎌倉入りできない義貞軍は、稲村ガ崎に向かう。稲村ガ崎で義貞が竜神に黄金の剣を投げ願ったら、潮が引いたそうです。黄金の剣のおかげかどうかはわかりませんが、潮はいつもより早く引きました。そして義貞軍が鎌倉へ突入したのです！<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">鎌倉幕府滅亡&nbsp;<br />
<br />
</font>鎌倉入りした義貞軍は、稲村ガ崎から極楽寺坂・化粧坂とがんがん進軍。義貞軍は中心部へ行くべく家々に火をつけまくって鎌倉は火の海となった。各所を守っていた幕府軍もこうなっては守るのも無意味となり、鎌倉中が炎に巻き込まれ混乱のるつぼとなりました。北条高時は小町の自宅にて敗戦が決定的とわかると、先祖の功績が灰になるのを絶望的な気持ちで見ながら、滑川を東にわたって東勝寺へ。<br />
<br />
そして東勝寺にて一族や家来８７０名と自害したのです。５月２２日　鎌倉幕府が滅亡した。高時３１歳でした。そして鎌倉幕府は滅亡したのです。ちなみに世間では「尊氏の嫡子・千寿丸はわずか4歳でありながら、新田義貞を率いて鎌倉を滅ぼした」と言われるように。義貞が千寿丸の「オマケ」と周りからは見られてしまい、義貞は憤慨しまくるのでした。<br />
<br />
ですが実際「新田義貞」の名前は売れていなかったので、義貞の名では何万という大軍を集めることはできませんでした。「尊氏の息子がいる」ということによって、多くの武士が戦いに参戦してきたのも事実なのです。これは義貞に屈辱感を与えまくりました。「なんでオレよりチビッコの千寿丸の方が人気あるんじゃ！足利ななんぼのもんじゃ！」と恨みまくり。指揮官は自分でも「総大将」は座ってるだけのチビッコ千寿丸ということになってしまっていたのです。<br />
<br />
ちなみに、高時が自害したとこに「腹切やぐら」という心霊スポットがあります。鎌倉在住だった管理人は、とある夜、高校生の頃友達と怖いもの見たさで行ったことありますが、不気味でした。</p>
<p>&nbsp;<br />
　<font style="BACKGROUND-COLOR: #00ccff">　<strong><a target="_blank" href="http://rekisirekisi9.blog.shinobi.jp/">平安時代の終焉へ＜＜</a></strong></font>　<strong><font style="BACKGROUND-COLOR: #33cccc"><a target="_blank" href="http://rekisirekisi11.blog.shinobi.jp/">＞＞室町幕府へ</a></font></strong></p>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>http://rekisirekisi10.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C%E6%BB%85%E4%BA%A1</link>
    <pubDate>Fri, 09 May 2008 01:32:57 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>徳政令と北条の衰退</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1285年　霜月騒動　家臣がえばりくさる<br />
<br />
</font>父の時宗が34歳の若さで過労死してしまったので、後を継いだのが14歳の北条貞時。まだよくわかってないので、安達泰盛＆平頼綱が補佐することになりました。が、この2人仲がめちゃくちゃ悪く、とうとうケンカをおっぱじめる。平は安達がめざわりっだったので、小さい貞時に「安達が謀反を企んでるよ」とそそのかし、安達を攻撃。これにて安達一族滅亡。<br />
<br />
この霜月騒動では、安達一族を500人も殺しました。権力を握った平頼綱は好き放題。平頼綱は、全国に御内人を派遣して、御家人の行動をチェック!「御内人（みうちにん）」といって北条「得宗」家に仕える人の事。頼綱のやりたい放題政治がスタートしちゃった。このやり方に、御家人はムカムカしはじめ、幕府か心が離れていくことに。<br />
<br />
成長してきた北条貞時も、家来のくせにえばりくさりやがって！と、むかつき始め、とうとう１２９３年　平頼綱を暗殺してしまった。これが平禅門の乱。そして２２歳になった貞時は、やっとこさ実権を握れました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">１１９７年　徳政令<br />
<br />
</font>なんとか権力を取り戻した貞時ですが、幕府への風当たりは強いまま。精力的に頑張り、なんとか北条の権威回復＆御家人の勢力復活を目指しました。そのころ御家人らは、２度の元の襲来によりお金を使いまくっていた。幕府はというと、この戦いのご褒美をあげれない有様。先祖代々の土地を売って戦費を作った御家人なんかは、御恩がでなけりゃどん底貧乏！ってことで、直談判しにいく御家人が殺到。<br />
<br />
幕府に直談判に行った御家人で有名なのは竹崎季長（たきざきすえなが）この戦いの時の活躍ぶりを絵に描かせた人。直談判されても、あげる土地のない幕府は、しかたないので少ない土地を分割して抽選で決めさせたりしました。それでももらえたらいい方だったのです。さらに、いつまた襲来されるかわかんないので、砦造りをさせられたりして御家人はじり貧状態に。<br />
<br />
生活できなくなった御家人は、とうとう土地を売ったり質入したり・・・とうとう貞時は、１１９７年にみんなの不満を解消するため徳政令を出したのです。これは、御家人の土地の売買や質入を禁止して、今までに売った土地をただで取り戻せるようにするという令。これには経済大パニック！<br />
<br />
徳政令がまた出たら困るってんで、もう御家人にはお金貸さない！って人が増えまくり、ますます混乱してきちゃった。ビンボー御家人は、土地を戻してもらってもやっぱり生活に困っちゃってしよーがないから、有力御家人の家臣になったりしました。そのため有力な御家人がどんどん大きな勢力になっていった。幕府なんか頼りにならない！という御家人が増え、幕府の力は衰えて始めることに。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">北条氏でも内輪もめ<br />
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</font>貞時は疲れちゃって、３０歳の時に従兄弟の北条師時に執権を譲りました。貞時は出家したけど、一応影の存在としてこちょこちょ動き回るけど４１歳で死去。北条師時（もろとき）が１０代執権に。が、御内人を統率している北条宗方が、師時が執権になったのがおもしろくなくって、この２人は対立することに。<br />
<br />
とうとう１３０５年に、宗方側が挙兵！師時の連署の北条時村を殺しちゃった。が、師時がすぐに対抗し、宗方も殺されるという事件がおきた。相次ぐ内輪もめに、徳政令で御家人からブーイングだった北条氏の勢力はさらに衰えていくことに<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">１３１１年に師時が死去<br />
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</font>１１代執権には北条宗宣（むねのぶ）がなるんだけど、長崎高資に実権を握られ、つまんないので8ヶ月で執権やめて出家しちゃった。１３１２年　１２代執権には殺されちゃった時村の孫の熙時が就任。祖父の仇！として、宗方討つぞ！と頑張った人。が、３年後３７歳で死去<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">１３代には北条基時（もととき）<br />
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</font>１４代は1316年　13歳の北条高時となります。まだ小さかったため、実権は長崎高資が握ってました。高時の後は、次の執権を巡り安達氏と長崎高資がバトル！これに勝ったのは長崎チーム。これを嘉暦の政変といいます。嘉暦の政変で勝った長崎高資は調子にのって、やりたい放題やっちゃう。このあたりから、幕府は崩壊の階段を上り始めてました。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">朝廷は？<br />
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</font>幕府で執権がコロコロと変わり、血みどろの争いが続いている中、朝廷でも天皇レース争いが続いてました。前に書いたけど、兄の後深草VS弟の亀山の天皇レースから始まって持明院統（後深草）と大覚寺統（亀山）の２つの派閥ができてました。<br />
<br />
１２７４年に亀山の皇子が９１代後宇多天皇になり、後深草上皇が怒って、幕府に働きかけて、しかたなく後深草の息子を皇太子に。で、１２８７年、後深草の息子が９２代　伏見天皇にそしたら今度は、亀山チームが幕府に働きかけ無理やり天皇を譲位させられ１２９８年に９３代　後伏見天皇が譲位（亀山チーム）今度は後宇多天皇の皇子が飛び出してきて１３０１年に94代　後二条天皇が即位。<br />
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覚寺統（亀山）のエースとして期待されたけど、24歳の若さで死去。後二条の後は、1308年に持明院統（後深草）12歳の花園天皇。皇太子には、大覚寺統（亀山）の尊治親王をたてました。で、この尊治親王が1318年に　96代　後醍醐天皇に。皇太子には持明院統の量仁親王をたてました。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">幕府は？<br />
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</font>15代執権は、北条（金沢）貞顕（さだあき）高時が病気になったため、長崎高資のプッシュで執権になるんだけど、嘉暦の政変で周りが対立しまくって、巻き込まれたらヤバイとたった10日で辞職して出家。もともと学問を好む文化人だったので、あまり向いてなかったのかも。<br />
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お次は1326年　最後の執権　16代　北条守時。この人も長崎高資のプッシュで執権に。が、実権は14代の高時と長崎高資ががっちりつかんでました。そして時代は変わっていきます・・・&nbsp;<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">太平記の世界&nbsp;<br />
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</font>「太平記（たいへいき）」とは、1318年後醍醐天皇即位から幕府滅亡・建武の新政・南北朝分裂・二代将軍義詮・管領細川頼之就任までの約50年間を描いた日本の軍記物語です。作者・成立時期ともに不詳であり、全４０巻からなっています。あくまで「物語」であります。登場人物は2000人を超え、血なまぐさい匂いがプンプンの物語です。血なまぐさいくせに「太平記」という平和なタイトルなんですねぇ。<br />
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「太平記」は今まで、戦前の日本において無視されていた本でした。というより、都合の悪い本でした。それはなぜか？というと、「南北朝問題」であります。というのも、この時に朝廷が「南」と「北」真っ二つに分かれちゃいます。そしてどっちが本当の天皇家なのか？という問題が沸き起こってくるからです。<br />
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江戸時代の水戸黄門こと徳川光圀は「南朝が正統だぁ！」と発表しました。が！実は今の天皇家は「北朝」の流れを汲んでいるのです。そのため、戦前の日本では「太平記」はあまり触れてはいけない部分だったのです。何人もの日本人が「神サマ・天皇」のため、お国のために死んでいってるのに、その「神サマ・天皇」が、実は正統じゃないっつーのは、ひじょーーーーにマズイことだったんですネー。といわけで、今まで闇に紛れていた（？）太平記ですが、これがまたおもしろい本なのです！！<br />
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この頃、幕府は元寇の時に御家人らに満足のいく恩賞を与えることができなかったため、基盤がぐらつきまくっていました。さらに北条氏の専政によって不満が出始めていたのです。そんな中、出てきたのが朝廷の異端児・そして期待の星・後醍醐天皇だったのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1305年　足利尊氏誕生<br />
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</font>この年、下野国（栃木県）足利貞氏の家の長男として尊氏（最初は高氏）が生まれました。そして翌年、弟の直義が誕生しました。2人は仲良く育ちましたが、性格が全く違いました。尊氏は優しく、些細なコトですぐに傷つく繊細な少年でした。学問が大好きで日本の本だけでなく、中国の本も読んだり、和歌を作ったり。<br />
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反対に直義は負けず嫌いで暴れん坊。そのため両親は「尊氏と直義が反対だったら良かったのに・・・」と思っていました。尊氏が13歳の時に祖父の家時が突然自殺しました。祖父の遺書には「祖父の八幡太郎源義家は自分から7代目の子孫は天下を取れと遺言した。ワシにはそんな力はないから自殺する。ワシの死を無駄にしないために、ワシから3代目の子孫は必ず天下を取ってくれ」というものでした。<br />
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家時から三代目というのはちょうど尊氏。父の貞氏は「お前は祖父の遺言どおり必ず天下を取るように。だがお前は優しすぎる。弟の直義と協力して天下を取れ。」と言い聞かせることに。尊氏はしょんぼり。直義に相談しました。「オレ、ほんとは僧になりたかったんだ。」<br />
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「兄ちゃん何バカなこと言ってるんだヨ！兄ちゃんは由緒ある源氏足利家の相続人だよ？そんなコト言っちゃダメだよ！」「お前が足利家の棟梁だったら良かったのに・・・。きっと皆そう思ってるよ。」「兄ちゃん！バカなこと言うな！弟が家を継ぐと必ず家が乱れるじゃないか！ボクは死ぬまで兄ちゃんを支えるから！」こうして弱気で優しいお兄ちゃん尊氏と、兄ちゃん大好きなハキハキした弟　直義は育っていったのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">足利家ってどんな家？<br />
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</font>足利家とは八幡太郎義家の次男である義国が祖となります。義家には子供が何人かいましたが、次々と死んでしまいました。次男の義国は長男が死んだため、自分が源氏の相続人になれると思っていました。ところが朝廷が口出ししてきて「義家の後継ぎは死んだ長男・義親の子供に継がせるのがいい」と言っちゃったため、義国は「はぁ？何だとぉ！何でオレじゃねーの？」不満タラタラとなったのです。<br />
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義国は怒って右大臣である藤原実能の家に火をつけちゃいました。この時の天皇である近衛天皇はこれを聞いて「お前のような乱暴者は都から出て行け！」と義国を追放しちゃったのです。義国も「オレだってこんなトコいたくねーよ！」と、自分の領地があった足利庄へ行ったのです。そして義親の筋は源頼朝を産むこととなります。<br />
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義国は常に「オレが本当の源氏の嫡流だ」という気持ちを持っていました。その後、義国は藤原敦基の娘と結婚して足利義重を出産。まもなくすると妻が死んでしまい、後妻に藤原有房の娘が入りました。そして足利義康を出産しました。<br />
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義国は先妻との子である義重よりも、後妻の子である義康をめちゃくちゃ可愛がりました。長男の義重はムカついて、家を飛び出して生母の父の遺領である上州新田へ移り住んだのです。場所が新田だったため「新田氏」を名乗るように。次男の義康が足利家の跡を継いだのでした。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">不満タラタラの新田氏<br />
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</font>長男でありながら父の「足利家」を継げなかった義重。当然新田氏も「おれが長男なんだから、本当の源氏の嫡流だ」と思うようになるのです。その後、源氏を継いだ源頼朝が鎌倉で平氏に立ち向かうべく兵を起こし「武士のための政治」を作ろうとしました。この時、足利家の当主であった義兼は「まず頼朝と組んで武士の力を強めてから、正当な家柄である足利家が源氏を乗っ取るか」ということで、頼朝の味方をしたのです。<br />
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頼朝は最初の反乱に失敗し、義兼も領地を取り上げられたりと苦労しまくりましたが、最後まで頼朝から離れませんでした。そのため頼朝は幕府を作ってからも足利家に感謝し、重宝したのです。そして足利義兼は北条政子の妹と結婚したりと、源氏と足利氏の血のつながりは鎌倉時代の初めから今までずーっと続きました。そして足利家は栄え、領地も増え、当時の名門大豪族となっていったのです。<br />
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新田氏はというと、所領の関係で京都公家連中と縁が深かったため、頼朝の反乱には最初っから朝廷側についちゃいました。そのため頼朝から冷遇されちゃうのです。その冷遇は北条氏が執権となった後もずっと続きました。また「鎌倉時代その１」で書いたように頼朝の色恋沙汰のとばっちりまで受けたりと運の悪さも手伝って、本来ならば嫡流なのに冷遇されまくるという悲惨な一族となっていったのです。<br />
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権威回復のため、北条氏や足利氏からお嫁さんを迎えたりしてたんだけど、いまいちパッとしなかった。そして足利家の方が栄え、新田家は貧乏になっていきました。とはいっても名門新田家のプライドは高く、逆に足利家をバカにしまくり。「けっ！足利は情けないぜ！家来筋の北条にまでぺこぺこしてやがる。その点、我ら新田氏はいかなることがあろうとも、プライドだけは捨てんぞ！」と、もともと家来である北条家にぴったりくっついてうまいことやってる足利家を軽蔑していました。<br />
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こうして新田家はつねに足利家に対して対抗意識を持つようになっていたのです。ちなみに足利義兼は評判がすごく良かったため、頼朝に「あいつ征夷大将軍を狙ってんじゃないか？」と疑いをかけられることに。事実だったんだけど、義兼は「今ここで頼朝に攻められて足利一族が根絶やしにされたら大変だ・・・」と考え、狂ったフリをして切腹自殺をしたのです。<br />
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そのため足利家も「けっ！頼朝め！足利家こそ源氏の嫡流じゃねーか！今にみてろや！」という気持ちがずーっと続くのでした。この思いは尊氏の時代になると「源氏の嫡流だというのに、源氏の家臣であった北条氏に、この足利氏が家臣同様に扱われるなんて・・・」という屈辱感が出てくるのです。そして足利家・新田家の8代目が足利尊氏と新田義貞でした。<br />
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この頃は足利家は名族として幕府の信頼も厚く、武家社会では名前売れまくりでした。対する新田家は幕府に対していつまでもプライドを捨てなかったため、注目を集めるどころか「新田家は足利家の一族」という屈辱的なイメージしかなかったのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1318年　96代　後醍醐天皇<br />
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</font>後醍醐天皇は、天皇になったときすでに31歳。天皇になった頃は後宇多上皇が院政をやってました。後醍醐天皇は体もたくましくうりざね顔だけど目が鋭く、濃い眉毛に意志の強そうな口元。ヒゲの跡が青々していて、天皇系にしては珍しくエネルギッシュで男性的な風貌をしていたそうです。手がめちゃくちゃ大きかったらしい。<br />
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1321年から実権を握り始め、身分に関係なく有能な人をドンドン出世させるタイプで人気急上昇。後醍醐天皇が抜擢した家臣は日野資朝（すけとも）・日野俊基・吉田定房・北畠親房など身分の低い公家ばかり。公家だけではなく、僧も沢山抜擢。特にお気に入りは文観（ぶんかん）でした。<br />
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積極的に政治に取り組み、自ら記録所（裁判所みたいなもん）に行って、訴えを聞いてあげたりした。日照りとかで農民らが苦しんだら、検非違使に命令して食べ物を分け与えたりして、民の心もゲット。でも、保守的な貴族やお偉いさんなんかからは目の仇にされてました。そんな人気者の後醍醐天皇にも悩みが・・・<br />
<br />
それは、自分の息子が皇太子じゃないってこと。この頃は、天皇レースは白熱していて、最初は亀山＆後深草の２つの派閥だったのに今じゃ、中間に花園・伏見・後二条なんかも割り込んできて泥沼化しつつあったのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">後醍醐天皇の妻達　阿野廉子<br />
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</font>後醍醐天皇には１８人の奥さんと皇子が１８人皇女が１８人いました。子供はもっといたんだけど「8」とう数字が末広がりと呼ばれる縁起がいい数字だったので、公式の記録に「18人」と残したらしい。ちなみに奥さんは「８人」でいいのにそれだけじゃ足りなかったらしい・・・。中宮（正妻）は西園寺実兼（さねかね）の娘禧子（きし）。で、この正室が「あたしの家来はこんなに美女ぞろいなのヨ！」と、才色兼備の侍女とともに内裏に入ったのです。これが禧子の不幸の始まり。<br />
<br />
この侍女の中に阿野廉子という美女がいて、後醍醐天皇はヒトメボレ！なんと廉子を愛妾にしちゃうのです。廉子は他の宮内の女性がかすんじゃうくらいの美女。また美女の上に才女でもあったそうです。そして天皇の寵愛を独り占めしちゃうくらいお気に入りとなっていくのでした。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1325年　後醍醐天皇　討幕を決意！<br />
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</font>後醍醐天皇はこのまま朝廷内の分裂が進んだら、天皇家の権威が薄れていくことを恐れていました。また自分で政治を行っていて、ありとあらゆるところに幕府の監視が光っているのがうざったかった。こうなったら、かつて「壬申の乱」で武力によって敵をやっつけたように、まず朝廷内の敵を力でやっつけたいと考えるように。そして、天皇家の権威を高めるために幕府を倒したい・・・と考えるようになったのです。<br />
<br />
幸いここんとこの幕府の評判は、徳政令や身内の争いでがた落ち。2度の蒙古襲来で幕府の経済状況はめちゃくちゃになっていて、幕府への不満は各地に広がっている。またこの頃は「悪党」とよばれる人たちが増え始めていた。幕府や荘園の領主に反抗している地方武士や農民のことで、「悪党」が、頻繁に出始め米や私財を奪った。地頭の中にも、悪党になる人が出て幕府の支配力は弱まっていた。<br />
<br />
さらに、世の中からあぶれて、変な格好をする悪党も出てきて、社会の秩序は乱れまくり。この不満は全て幕府へ向かっていった。人心を失っている今こそ、幕府を倒すチャンス！！後醍醐天皇の心は決まった。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">朝廷ご乱交パーティ！？<br />
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</font>後醍醐天皇は六波羅探題の目を逃れるために無礼講のパーティをしまくっていました。太平記によると「その遊宴のありさまは、見聞きするものをみんな驚かせた」というくらいすごいパーティでした。まず１７歳くらいの美少女を20人くらいホステス役にしました。その美少女の制服はスケスケの着物。そして美少女達にお酌をさせ、男はみんな烏帽子を脱いで山・海の幸を取り寄せまくり。酒も浴びるように飲みまくっていたそうです。<br />
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そしてそのパーティにおいて「打倒幕府」の会議を行っていたのです。 日野資朝・日野俊基　味方を作りに奔走する まず側近の日野資朝が「ワシのような無能な人間が天皇の近くにいたら申し訳ない」といって山伏の姿に身を変え都から出て行き関東へ向かった。お次は日野俊基も、大事な場面でわざと漢字の読み方を間違えて公家らに大笑いされ「こんな恥をかいてしまったら天皇のお側にいられない」と山にこもるフリをして大和や河内へ向かった。<br />
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身分の低い公家のくせに出世しやがって！と、妬んでいた公家連中は大喜びしてました。俊基はこの密行で沢山の地方武士の味方を得ました。ターゲットにしたのは、かつて承久の乱などで北条氏に冷遇されていた武士らでした。楠木正成らもこの時に「必ず天皇の味方を致します」と誓ったのです。<br />
<br />
資朝は関東に向かいました。ターゲットは足利氏です。源氏の嫡流である足利や新田がこちらの味方になってくれたら、全国の武士に与える影響はかなりのものがある。という思いがあったのです。そして足利尊氏のもとを訪ねました。対応したのは尊氏・直義・そして足利の執事である高師直でした。<br />
<br />
3人は資朝に「幕府を倒したいから天皇の味方をしてくれ」という話を受け、「どうする？」と相談。直義と高師直は「意欲だけは旺盛な天皇と、戦う力もない公家が中心となっている倒幕なんか頼りなくて無理だろ？確かに足利が天下を取るチャンスかもしれないけど、今回は様子を見たほうがいい」ということに。<br />
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ちなみに高師直は尊王心のかけらもない男でした。<br />
<br />
常々「都に天皇ってのがいて、院だの御所だのがあって、武士はいちいち馬から下りなきゃなんないなんてめんどくさくてやってらるか！どうしても天皇ってのが必要だったら木で人形でもこしらえておけばいいじゃねーか。生きている天皇なんて国をややこしくするばっかなんだから、どっかへ流しちゃったほうがいいぜ！」と堂々と言っていました。そのため資朝が来た時も「武士のために北条を滅ぼすならいいけど、天皇のためなんてやってられっか！ばかばかしい。やつらは武力がないから、口が武器だ。だからウソばっかりついて、人を上げたり下げたりする。平気で人を陥れる。信用なんてできねーぜ！」と思っていたのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">初代　バサラ　高師直（こうのもろなお）<br />
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</font>高師直は尊氏が守護職だった頃からの足利家の重臣でした。代々の執事みたいなもんで、足利家の家政をやっていた家柄だったのです。古いしきたりや家柄などを気にしない性格で、自分のやりたいことを平然とやってのける人でした。特に天皇のことなんか大嫌い。バカにしまくっていました。ですが尊氏はそんな高師直の才能を買っており、直義とともに右腕としていたのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1325年　正中の変<br />
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</font>武力のない天皇家が幕府を倒すのは無理だろ？という武士は多かった。また幕府のおかげで甘い汁を吸わしてもらってる貴族なんかもいて、この計画はすぐに幕府にバレてしまいました六波羅も次々ともたらされる密告により「天皇謀反計画」は公然のものとなっていました。ですが、それがいつ行われるかだけがわからなかったのです。<br />
<br />
天皇側の決行は9月23日と決めていました。この日は北野天満宮のお祭りの最高潮の日だったのです。そのため六波羅はお祭りの警護にあたることになっており、人員がほとんど駆りだされることになっていました。天皇一味はこの日を狙ったのです。が、この計画は事前にバレてしまいました。<br />
<br />
天皇側についている美濃の土岐頼兼の一族である頼員（よりかず）からバレてしまったのです。頼員には惚れて惚れてやっと結婚できた女性がいました。その妻に「おれ、９月２３日に頼兼殿と一緒に天皇のために六波羅を攻撃するんだ」と言ってしまったのです。驚いた妻は「ふーん・・・」と言ったっきりでした。が、この女の父は六波羅の奉行である斉藤利行だったのです。<br />
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妻からしれみれば「天皇が反乱起こしたって幕府に勝てるわけないじゃないの！それならいっそ密告してダンナだけでも助けなきゃ！」というものでした。そして闇の中、六波羅へ向かったのです。娘の通報を聞いた斉藤利行はビックリ！すぐさま六波羅探題にて緊急会議が開かれ、土岐頼兼・日野資朝・日野俊基・多治見国長らを襲いました。そして四条付近でバトルとなり、土岐・多治見らは戦死。日野俊基らは捕らえられたのです。<br />
<br />
朝廷に追及の手が入りました。日野資朝は拷問にかけられても「すべて私が計画したことで、天皇は全く関係ありません」と、一人罪をかぶり、資朝は佐渡へ島流しとなったのです。日野俊基は「資朝殿が気の毒だ」と涙し、後醍醐天皇も涙したのです。これが正中の変で、最初の倒幕計画は天皇側の大失敗となったのです。&nbsp;<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">後醍醐天皇　せっせかと頑張る<br />
<br />
</font>鎌倉幕府の強さをイヤというほど味わった後醍醐天皇。やはり「武士」は強いということを認めざるをえなかった。その強い武士に対抗するには、こちらも武士を味方にするしか方法はない。そして武士同士を激突させて、お互いの力を消耗させてしまおうと考えました。その武士をまとめる指導者を誰にするか？そうなると源氏の嫡流で全国各地の武士が「あの人ならついていこう！」と思うような人カリスマ性のある人でなければならない。<br />
<br />
土にしがみついている地方武士たちが、武士の名門に対していかに尊敬の気持ちを持っているかを後醍醐天皇はわかっていました。そしてその気持ちを「田舎物めが。武士の名門など天皇から比べれば犬にも等しい！」と、小ばかにしていた部分もありました。そうなると源氏の嫡流である「足利尊氏」と「新田義貞」が適任。後醍醐天皇は会ったこともないこの2人に期待し始めるのでした。<br />
<br />
楠木正成などいかに忠義があろうと、ただの地方武士では役不足なのでした。さらに後醍醐天皇はまたも人気取りに奮闘した。さらにさらに、幕府に対抗する武力を確保するために、寺社に大接近。この頃の寺社は今のお寺とかと違って、全国各地に領地を持っておりそこで働く武士なんかを抱えていた。また、寺院でもすごい強い僧兵をわんさか抱えこんでいた。<br />
<br />
後醍醐天皇は、自ら延暦寺とかの力のある寺社に足を運んだので、僧兵らは「天皇自ら来てくれるなんて」とカンゲキ！あまりにも頻繁に行くので、後醍醐天皇は寺社で呪詛してるんじゃないか？という噂まで立つほど。後醍醐天皇の討幕執念は、ずーっと続いてたのでありました。<br />
<br />
1326年になると、北条高時が病気を理由に執権を譲った。高時は、執権をやめてからも実権を握ってるんだけど、遊びにはまって社会の乱れを直そうとしなかった。1327年には後醍醐天皇の第三子　護良（もりなが）親王が比叡山に入りました。　　　　　</p>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>http://rekisirekisi10.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E5%BE%B3%E6%94%BF%E4%BB%A4%E3%81%A8%E5%8C%97%E6%9D%A1%E3%81%AE%E8%A1%B0%E9%80%80</link>
    <pubDate>Fri, 09 May 2008 01:10:26 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>日本３大女傑　北条政子</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">尼将軍　北条政子の名演説<br />
<br />
</font>ここで出てきたのが北条政子。政子は御家人達を勢院集めた。「私は今までつらい目にあってきました。娘をなくし頼朝もなくし、さらには息子２人・孫２人次々となくしました。そのたびに死のうと思いましたが三代将軍の菩提を弔うため生きてきました・・・」と演説が始まったのです。<br />
<br />
肉親の情よりも幕府を優先してきた政子の言葉は、御家人達の心に染み入りました。そして「みなのもの、これが私の最後の言葉です！幕府ができる前、武士はひどい扱いを受けてきた！頼朝がここまで頑張って武士のためにやったのを無にできようか！ここで朝廷に屈してしまえばまた元通りになってしまう。今こそ、頼朝の御恩に報い、上皇軍と戦うべきである！上皇軍につきたい者は今すぐ名乗り出よ！！！」<br />
<br />
そしてさらに「幕府が上皇に背くのは愛人亀菊のわがままによって地頭職を解任することはできないからである！頼朝がみなのものの勲功によって与えた職を何の落ち度もなく愛人のわがままによって取り上げることができようか？昔は京都の守護は３年やらされた。三年も京都にいれば国に戻る時に裸足で帰らねばならぬほど関東の武士はつらい思いをしてきた！これを頼朝は半年にまで短縮した！これが関東の政治である！京都につくか、関東につくか、今しかと心を決めよ！」ととタンカをきったのであります。<br />
<br />
この演説は関東の武士の心をがっちり掴んだ。「そうだ！頼朝依然の関東武士は悲惨な生活だった！また元に戻るなんてイヤだ！」と声があがり「鳥や獣も飼い主への恩は忘れません！都を枕に討死し屍を禁中にさらします！」と言い武士達は団結し朝廷と戦うことを決めたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1221年5月　幕府VS朝廷　承久の乱<br />
<br />
</font>そして、政子は「攻撃を待ってるだけじゃダメ！こちらから進軍し迎え撃て！」と提案。北条義時＆時房は箱根あたりで待ってようヨと消極的。上皇軍を迎え撃つことに。京都から西は上皇側に味方し、朝廷VS幕府の天下分け目の戦いが始まる。<br />
<br />
幕府軍の大将は北条泰時。副将に時房泰時は義時の長男で、時房は時政の3男（政子＆義時の弟ね）泰時は鎌倉幕府を代表する平和主義者義時は、自分が人気ないのを知ってたので、息子の泰時を大将にしたわけデスそして宇田川で決戦幕府側は全員討ち死に覚悟で鎌倉を出発。「いざ鎌倉！」を合言葉に、次々と幕府側の武士があつまりその数２０万人。<br />
<br />
対する朝廷側は、結構のんびりしてたらしく「なんで幕府軍に、こんなに人があつまるんじゃ？」とびびってしまい、宇田川の合戦は幕府軍の圧勝。その後も幕府軍はガンガン進軍し、朝廷軍は完全に叩きのめされた。<br />
<br />
幕府軍が京へ入ってきた時には、後鳥羽上皇うつ術なし。家に閉じこもり、討幕計画はオレじゃないよ！部下がやったんだよ！オレは関係ない！と苦し紛れに言ってきたのです。義時は、それを無視。この乱に関わった者は、厳しく処分。後鳥羽上皇は讃岐に島流しとなりました。そして幕府は、朝廷を監視するために六波羅探題（ろくはらたんだい）を設置。幕府の力が西国へも伸びることになったのです。<br />
<br />
さらに、朝廷方についていた公家や武士の領地を没収して幕府軍で活躍した武士に恩賞として与えた。また、新補地頭（しんぽじとう）を置き、とりあげた土地に御家人を任命した。幕府の力は、承久の乱によりパワーアップしたのです。<br />
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<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1224年　親鸞の浄土真宗<br />
<br />
</font>この頃、親鸞が浄土真宗を広めていた。ちなみに、浄土真宗は戦国時代に度々起きる一向一揆の一向宗のモト。平安末期、世の中が源平合戦に明け暮れてるころ法然が浄土宗を開いていて、それが発展したのが浄土真宗。<br />
<br />
南無阿弥陀仏と唱えると救われますという教え。これを唱えれば悪人でも極楽にいけますよってモノ親鸞は、法然のいるのちの知恩院（ちおんいん）で浄土宗を開いてた法然のとこに入門。が、僧のくせに結婚しちゃったので他の僧から嫌われていました。ちなみに僧は食べちゃいけないといわれていたお肉も大好き！<br />
<br />
1206年に法然の弟子が院の女官を出家させちゃったことに怒った朝廷が念仏を禁止。法然や親鸞も流罪になっちゃった。で、親鸞は東国へ行き信者が増やしていく。唱えるだけで極楽へいけるって教えなので、泥棒なんかが「悪いコトしてても念仏となえりゃ極楽に行けるぜ」と、悪いやつが減らなくなりとうとう1234年幕府により行き過ぎた念仏を禁止された。その後、親鸞は京に戻って弟子達の指導に励みました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1125年　北条政子　死去<br />
<br />
</font>頼朝死後も、遊んでばっかいる息子に代わって政治の表舞台に立ち「尼将軍」と言われました。日本史上、数少ない女性政治家の中で有名度NO１の政子ですが1225年　69歳で死去。お墓は鎌倉に寿福寺（じゅふくじ）に実朝と一緒に眠ってます。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1227年　道元の曹洞宗&nbsp;<br />
<br />
</font>この頃栄西が臨済宗を開く1191年宋に渡ってた栄西が帰国して開いたもの。他力本願の浄土宗とは違って、座禅をすることによって自ら悟りを開きなさいというモノ。これが武士の気風にピッタリだ！ってことで、幕府は、栄西のために寿福寺を建てて保護した。栄西亡き後教えを継いだのは道元。<br />
<br />
臨済宗は世俗化しすぎて、禅の精神から離れてしまった！と禅の精神をもっと強化した曹洞宗を始めた。これも難しい経文に頼らずに座禅中心なので、武士らに人気。が、延暦寺の僧が経文をナメてる！と妨害。京を出て越前（福井県）へ行き、布教につとめました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1232年　御成敗式目制定<br />
<br />
</font>承久の乱の後、武士の力が強くなるにつれて領地を巡る争いが起こるように。幕府はというと北条義時の側室の子、泰時が3代執権となりおじの時房を連署（れんしょ・執権を助ける人）に任命して、御家人の中から11人選んだ評定衆（ひょうじょうしゅう）を作って政治を公平に行うようにがんばっていました。<br />
<br />
泰時は守護・地頭の土地争いが絶えないというのを聞いて、1232年　51条からなる武家の法律「御成敗式目」を制定。基本は、武士の土地や権利を保護すること。御家人の土地は絶対保障するけど、そのかわり守護･地頭の役目はきっちり守れ！って感じの内容で、不正をできにくくした。さらに、年貢が納められなくて逃げていった農民の妻や私財を勝手にとりあげるのを禁止。<br />
<br />
また、いったん親が子にあげた土地を親が自由に取り戻せたり、女性にも土地の相続権を認めたりした。ただし、荘園にはまだ立ち入りができなかった。この法律は、御家人だけのものなので、家来が主人を訴えたり農民が地頭を訴えたりするのはダメでした。泰時は、側室の子なので執権につくときかなりモメた。一応正室の子もいたからね。正室の子にお金をいっぱいあげたりしてなんとか平和に。吾妻鏡によると、泰時はみんなに好かれたイイヒトだったらしい。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1226年　四代将軍頼家　将軍の権威　まるでなし<br />
<br />
</font>ところで、政子らが将軍を後鳥羽上皇の一族から・・・とお伺いをたて断られた時、後鳥羽は「代わりに頼朝の妹のひ孫である2歳の九条頼経をあげるよ」ってことで、頼経は京から鎌倉に連れてこられた。ちなみに、義時は1224年に死去。3代執権は泰時だよ。<br />
<br />
そしてこの頼経は1226年に8歳で4代将軍に就任。1230年12歳の時、2代将軍頼家の娘竹の御所と結婚させられました。まさに北条氏に無理やりやらされた傀儡将軍でした。傀儡ってのは、あやつり人形みたいな意味だよ。が、だんだん大きくなるにつれ反北条派が頼経に接近してきました。<br />
<br />
1242年に泰時が死去経時が4代執権に就任しました。で、反北条派勢力に丸め込まれてる将軍頼経と執権経時は仲が悪くなっていったのです。頼経が27歳になった時、経時から「大きくなって自分の意見を言うようになったので扱いづらい！」と、将軍を辞めさせられ、息子頼嗣を6歳で将軍にさせられちゃいました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">5代将軍　頼嗣&nbsp;<br />
<br />
</font>無理やり辞めさせられた頼経。跡を継いだのが5代将軍頼嗣頼経と竹の御所には子供がいなかった。他の女性との子です。が、1551年に頼嗣は謀反事件に絡んでるという理由で、追放されてっしまいました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1256年　6代将軍宗尊親王<br />
<br />
</font>お次は後嵯峨天皇の息子　宗尊親王（むねたかしんのう）が、1256年　6代将軍になる。九条頼経と九条頼嗣の二代を、摂家将軍と呼びます。宗尊親王が将軍になったころには北条氏が政治基盤を固めまくってたので、将軍といえども権限はまったくなかった。<br />
&nbsp;<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">北条氏執権政治<br />
<br />
</font>4代執権経時は、5代将軍頼嗣に妹の檜皮姫（当時16歳）嫁がせ、頼朝以後はじめて北条氏は将軍家の親戚になった。が、23歳で弟の時頼に執権をゆずり、1ヵ月後死んだ。これは時頼が絡んでんじゃないかと言われている。時頼は、4代将軍をやめさせられた頼経が、いつまでも鎌倉にとどまり反北条派と仲良くしてるのが気に入らず、謀反を理由に京へ強制送還。その際、反北条派勢力も流罪したりと、お灸をすえた。<br />
<br />
さらに、1247年には有力御家人の三浦氏に謀反の動きありとの口実で三浦一族を滅ぼしてしまい、ついでに上総の豪族千葉氏も滅ぼしちゃった。これで北条氏をおびやかす御家人の掃除は終わった。1256年に、宗尊親王を将軍にするが、北条氏が実権を握ったまま。が、時頼が病気がちになり、息子の時宗はまだちびっこだったので、一族の北条名時に6代執権を譲ったけど、実権は後ろで時頼が握り続けた。<br />
<br />
時頼により、北条専制政治が切り開かれました。ちなみに時頼は37歳のとき座禅中に死んだらしい。名時は1564年に病気になり北条政村に執権を譲った。政村が7代執権になるが、時頼の息子の時宗が18歳になるまでの条件付き。<br />
<br />
将軍はというと、宗尊親王がだんだん幕府っつーもんがわかってきてうざくなってきたってことで、これまた謀反の疑いありとして1566年に京へ追放。宗尊は、鎌倉にいた頃の寂しさを京に帰って和歌で詠んだらしい。次の将軍は宗尊の3歳の息子　1566年　7代将軍　惟康親王（これやすしんのう）これまた名ばかりの将軍でした。そして1268年に大きくなった時頼の息子時宗が8代執権になりました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">朝廷は兄弟ゲンカ！後深草VS亀山<br />
<br />
</font>幕府が北条執権政治が続いてる中、朝廷では88代後嵯峨上皇。4歳の息子後深草（89代）に天皇を譲り、弟恒仁親王を皇太子にして院政をはじめていた。が、後嵯峨は弟の恒仁親王をめちゃくちゃ可愛がっていて御深草より、恒仁親王に実権を譲りたかった。<br />
<br />
後嵯峨は後深草が病気がちになったので、弟の恒仁親王に譲位させ1259年に90代亀山天皇誕生。御深草は上皇になった。さらに後深草に皇子がいるっつーのに、可愛い亀山のために後嵯峨法皇は、亀山天皇の息子を皇太子にしちゃった。もちろんおもしろくないのは兄の後深草。幕府に相談しちゃったのです。<br />
<br />
幕府が調べた結果、後嵯峨は亀山を後継者にするつもりだってのがわかり実権は亀山が握ることに。後嵯峨が死んだ後、兄・後深草を飛び越えて「治天の君」となり息子を天皇にして1274年　91代後宇多天皇にした。が、怒り収まらない後深草は、幕府に色々と働きかけなんとか後宇多天皇の皇太子に自分の息子の熙仁親王を皇太子にさせた。でもこれも問題の先延ばしにすぎなかった。<br />
<br />
亀山は後深草がうるさいから、とりあえずヤツの息子を皇太子にしてやったけど、その後は、自分の系統にするつもりでいたし、後深草は、自分の息子を皇太子にして「うるさい父・後嵯峨もいないし、これからはオレの思い通りにやるぜ！」とやる気マンマンだし。以後、後深草＆亀山の後継ぎ争いは続き、取り巻きの貴族も分裂していくのです。<br />
<br />
後深草系統が、持明院統（じみょういんとう）といい、のちの北朝<br />
<br />
亀山系統が、大覚寺統（だいかくじとう）といい、のちの南朝<br />
<br />
この２つは泥沼化のバトルを繰り広げるが、軍事力がなかったため何かと幕府を自分トコの味方にしようと働きかけるが、幕府はあくまでも中立な立場をとっていた。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1274年　文永の役（ぶんえいのえき）　フビライ・ハン<br />
<br />
</font>この頃、チンギス・ハンがモンゴル帝国を造り周辺の国をやっつけヨーロッパからアジアにまたがる大帝国になっていた。その孫、フビライ・ハンはモンゴル帝国の5代皇帝で1168年にお次は日本だ！と、高麗（朝鮮）の使者に大宰府へ手紙をもって行かせた。その手紙には「日本はモンゴルの属国（家来みたいなもん）になれ」と書いてあり当時の権力者である8代執権北条時宗は「なんで家来になんなきゃならんのじゃー！」とカンカンに怒って九州の防備を固めさせた。<br />
<br />
1271年に、国名を「元」と変えたフビライ･ハンは、またも属国になれと言って来た。時宗はまたも無視。そしてとうとう1274年蒙古軍は日本へ攻撃開始対馬や壱岐はあっさり占領され、略奪の限りを尽くされまくった。そして翌日蒙古軍は、九州の政治の中心である大宰府へ攻撃しようと博多湾へ迫りました。そこで待機する日本軍と戦いが始まるのであります。<br />
<br />
この頃、日本の戦い方マニュアルとして,まず「やぁやぁわれこそは○○なりー」と名乗ってから一騎打ちってのがルールだった。で、それが当たり前と思ってた日本軍は、「やぁやぁわれこそはー」と言って進み出たところ、たちまち蒙古の兵隊に取り囲まれ討ち取られてしまった。「そんなあほな！？」とびっくりした日本軍。長い間の戦いの習慣は、短時間では直せずにいました。<br />
<br />
日本軍はなんてヤツラだ！と思っただろうけど、そんなの知るかの蒙古軍。また、日本では戦った後は名のある武将の首を取って首実検をしてた。首はその後の恩賞に必要だったからね。だけど、蒙古軍は首などもちろんとらずに死体をそのまんまにして進軍してきた。さらにみんなをビビらせたのはドラの音。馬なんかはあまりの大きな音にびっくりして馬を使ってる武士はめちゃくちゃ。<br />
<br />
そしてさらに「てつはう」という鉄砲じゃないんだけど、火薬をつかった武器を使ってたので日本軍はこの新兵器にびっくり。その日1日は日本軍の大苦戦に終わってしまった。が、夜になると蒙古軍は夜襲を恐れたのと、不慣れな土地だってことでそのまま陸上で野営せずに一度船に戻ってしまう。その時、海の上で暴雨風がおき、軍船の多くが沈没してしまうといういわゆる「神風」が吹きました。これが文永の役です。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1281年　弘安の役（こうあんのえき）　またも蒙古軍やってきた<br />
<br />
</font>「神風のおかげじゃー！」と日本軍大喜び。が、またも1281年に大軍をひきつれてやってきた。文永の役と同じように、博多湾にやってきたて上陸しようとしたんだけど今回は日本軍もちゃんと防壁を作っていた。また日本軍は果敢に戦いに挑み、蒙古軍はここを突破できずいったいん壱岐へ退き、別の軍が来てから全面攻撃をかけようとしました。で、別軍到着。さぁ、作戦会議！ってところにまたも「神風」が吹く。14万人の大軍が残りわずか3万人になってしまい、日本は神風のおかげで蒙古軍の来襲を防ぐことができました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">8代執権　北条時宗大忙し<br />
<br />
</font>蒙古軍が去った後も、時宗は超ハードスケジュールの日々。またいつ蒙古軍が攻めてくるかわかんないので、西日本の整備を整えなきゃなんないし、戦いに参加して頑張った武士らへの恩賞もあげなきゃなんないし。この戦いには、御家人だけじゃなく寺社や貴族に使える人たちも動員したのでこっちにも恩賞をあげなきゃなんない。問題山積みじゃー！と超多忙の時宗<br />
<br />
とうとう1284年に　34歳でストレスで過労死してしまいました。幕府は御家人らに恩賞をあげることができませんでした。今までは国内で戦っていたので、負けたほうの土地を奪い恩賞として与えることができたんだけど、今回の敵は外国から。そのため勝っても与える土地がなく、御家人らはただ働き。そのため御家人らの不満が募り、幕府の基盤がぐらつきはじめるのです。</p>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>http://rekisirekisi10.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E6%97%A5%E6%9C%AC%EF%BC%93%E5%A4%A7%E5%A5%B3%E5%82%91%E3%80%80%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%94%BF%E5%AD%90</link>
    <pubDate>Fri, 09 May 2008 00:42:32 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>鎌倉幕府の誕生</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1192年　頼朝征夷大将軍に！鎌倉幕府スタート<br />
<br />
</font>義経を殺し、奥州藤原氏を滅亡させた頼朝は1190年、京に行く。後白河法皇に「征夷大将軍」にさせてくれとお願いするが却下。が、1192年後白河法皇が死ぬと、朝廷から「征夷大将軍」に任命された。日本で始めての武家政権・140年続く鎌倉幕府がスタートとなったのです！！鎌倉時代説は1192年がフツー言われてるんだけど、「守護・地頭」をおいた1185年説もあります。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">鎌倉幕府の仕組み<br />
<br />
</font>頼朝は、自分の下に集まってきた「武士」を御家人（ごけにん）として主従関係を結んだ。御家人の先祖代々の土地の所有権を認める（御恩）かわりに、幕府への忠誠を義務づけ、戦いがある時い参加しなさい！（奉公）という御恩と奉公の関係を結ぶ。 政治はというと</p>
<p>侍所（武士を統率）</p>
<p>政所（行政つまり政治をやるとこ）</p>
<p>問注所（裁判をやるとこ）</p>
<p>まだこの頃は朝廷や公家の土地や荘園があったので、頼朝は一応これは認めてたけど自分の御家人を守護･地頭に任命してチェックさせた。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1193年　日本三大仇討ちの一つ　曽我兄弟<br />
<br />
</font>日本三大仇討の一つに数えられる「曽我物語」兄弟の名前は曽我祐成（すけなり）・時到（ときむね）です。事の発端は、曽我兄弟の四代前になる工藤祐隆（すけたか）が、後妻の連れ子の娘を気に入っちゃったことです。後妻よりもその連れ子だった娘を気に入ってしまい、子供を産ませてしまったのです。そしてその娘に産ませた祐継（すけつぐ）をめちゃくちゃ可愛がり、自分の本領を与えてしまったのです。<br />
<br />
おもしろくないのは前妻の息子達。祐隆の嫡男である祐家は病気で死んでしまい、祐家の長男である祐親（すけちか）は、「本当だったら、こっちが本筋じゃねーか！」とムカムカしていました。すると祐継が幼い息子を残したまま病気で死んでしまったのです。これはチャンス！と祐親。祐継の土地を乗っ取ったのです。で、祐継の息子・祐経（すけつね）が大きくなり訴えましたが、全く聞き入れてもらえず、とうとう祐親を殺害しようと計画。<br />
<br />
ところが祐親を殺せず、その嫡男である祐泰が殺されてしまったのです。この「祐泰」が、曽我兄弟の父親でした。父が殺された時、兄の祐成は５歳。弟の時到は3歳でした。その後の工藤祐経は頼朝の兵として戦い、出世していくのです。曽我兄弟はこの「工藤祐経」を父の仇・・・・と、幼い頃から仇討ちをするべく生きていました。<br />
<br />
1193年　頼朝は富士山で狩をすることに。この日はみなで酒を飲み、酔って寝入っていました。そこへ曽我兄弟が「父の仇！覚悟！」と襲撃し、ついに悲願達成となったのです。が、兄の祐成は、慌てて駆けつけた祐経の家臣らにその場で斬り殺されてしまいました。弟は翌日、頼朝の前に連れてこられました。その時、時到は堂々と遺恨を延べ、死ぬ覚悟でやってきたことをまったく臆することもなく言ったのです。結局死罪となってしまいましたが、頼朝は「曽我兄弟は武士の鑑じゃ」と褒めたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">新田氏没落！頼朝の不倫が原因！<br />
<br />
</font>頼朝は弟の義経に負けず劣らず大の女好きでした。鎌倉幕府が始まり、源氏に一番近い嫡流として新田氏の新田義重（よししげ）ちなみにお次が新田義重の弟で足利義康（よしやす）の足利氏。この２人は源義家の息子　源義国の息子です。なので頼朝とは親戚。さらにその下には源義家（八幡太郎）の弟の源義光（新羅三郎）からでた武田氏。で、問題になるのは新田義重の娘。<br />
<br />
この娘は頼朝の兄・源義平の奥さんだったんだけど、平治の乱で義平が死んだために未亡人となっていました。頼朝はモテモテだったので軽い気持ちで兄の奥さんに声をかけたのです。ですがこの奥さんが「あたしのダンナ義平は悪源太と呼ばれた武芸の達人よ？たった7騎で平重盛500騎をやっつけたほどの強者よ？いまさらあんたなんか相手にできないわよ」と頼朝をバカにしまくったのです。<br />
<br />
頼朝はこの返事を聞いて激怒しました！飛ぶ鳥を落とす勢いの自分に対してなんて失礼な女だ！と新田義重を出世コースから外したのです。この時北条氏はというと有力な邪魔者が消えてくれて喜びました。頼朝の身勝手な行動を止めることはしなかったのです。そして新田氏は幕府の主流から思いっきり外されてしまい、ビンボー生活に突入！１００年後新田義貞によってやっと恨み（？）を晴らすことができるのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1198年12月27日　頼朝死す！<br />
<br />
</font>幕府を開いてから7年後、頼朝が53歳で馬から落馬して死んでしまう。突然の死にみんなビックリ。これには暗殺説があり、鎌倉時代の公式史書「吾妻鏡」は1196年から1199年が抜けていて、頼朝死去の死去についても「橋の完成祝いの帰りに稲村ガ崎で落馬して死んじゃった」と簡単に書いてあるだけではっきりとした死の原因を書いていないから。<br />
<br />
他の説として・・・<br />
<br />
後鳥羽上皇暗殺説<br />
落馬した時は死んでおらず、怪我の療養中に毒を盛られたという説があります。後鳥羽上皇が幕府の急激な成長に焦りを感じて土御門通親（つちみかどみちちか）を通し土御門の家臣だった大江広元に毒を盛らせたとのこと。<br />
<br />
政子に殺された説<br />
頼朝が政子に「一番美男子は誰だと思う？」と聞き、政子は「畠山重忠だわぁ」と答えました。頼朝は「もしかして政子、畠山と浮気してるんじゃ・・・」と心配になり、畠山に似た格好で政子の寝所へ。驚いた政子が刀で斬りつけたら、実は頼朝だった・・・という説。<br />
<br />
他にも色んな説がありますが、いずれにしても「将軍」として名誉ある死に方ではなかったため、頼朝の死の部分は不透明になってしまいました。そして頼朝死後は北条氏が「執権」として権力を握ります。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1199年　2代将軍　頼家　頼朝死後の政治は？？<br />
<br />
</font>頼朝と政子には頼家と実朝という息子がいました。頼朝死後は、長男の頼家が二代目将軍に任命されました。頼家は18歳になったばかりだったので、幕府の運営には13人の会議制で運営することに。名目は若い将軍を補佐するってことだったんだけど、実際は頼家に独裁政治をさせないため。<br />
<br />
この13人の後家人は</p>
<p>北条時政（政子の父）<br />
北条義時（時政の次男）<br />
三浦義澄（頼朝挙兵からの忠臣）<br />
比企能員（ひきよしかず・頼家の妻・若狭局の父）<br />
梶原景時（頼朝を石橋山で見逃して以来の忠臣）<br />
和田義盛（侍所長官）<br />
安達盛長（頼朝の忠臣）</p>
<p>などなどのメンバー。</p>
<p>そして忘れちゃいけない「北条政子」<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">将軍よりも強い母　政子<br />
<br />
</font>頼家は将軍になってすぐにある事件を起こす。安達盛長の子景盛が仕事で出かけてる最中に、景盛の妻を横取りしちゃう。もちろん景盛怒って抗議するんだけど、頼家が逆ギレして景盛を罰しようとしたのです。将軍の権力は絶対だという鎌倉幕府の仕組みからいえば、将軍に抗議した景盛は罰せられてもしかたない・・・って動きの中飛び出してきたのが政子。頼家に対して「景盛を殺すなら、先に私を殺してからにしなさい！」と言ったのです。<br />
<br />
さすがに頼家、政子に言われちゃどーしよもないので、景盛を罰するのをあきらめた。将軍の暴走をストップできそうになかった家臣らは「将軍よりも強いのは母・政子だ」という認識を持つようになるのです。頼朝の後を継いだ頼家がもう少し賢い将軍だったら、この先政子の出番はなかったことでしょう。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1200年1月19日　梶原景時一族殺される&nbsp;<br />
<br />
</font>幕府の権力は13人の御家人達が均衡を保っていました。そんな中、もともと「告げ口ばっかしやがって！」と、みんなに嫌われていた梶原景時がよからぬことを企んでいる！というニュースが入ってきたのです。景時が結城朝光（ゆうきともみつ）を讒言したのが事の発端でした。景時は武士でありながら教養があり、京風文化にも通じていたので頼朝から気に入られていました。<br />
<br />
そんな景時を「あいつは要領がいい。ずるがしこいヤツだ」と皆嫌っていたのです。三浦義澄・和田義盛・畠山重忠らが中心となり梶原潰しにかかりました。これはヤバイことになってきた・・と感じた景時は一族みんなで京都に逃げようとしたのです。が、京へ向かう途中（静岡県清水市）で、幕府の手先に襲われ戦闘となり殺されてしまいました。こうして梶原一族は滅亡してしまいました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">次のターゲット　比企能員&nbsp;<br />
<br />
</font>次に槍玉にあがったのは比企能員（ひきよしかず）能員は頼朝の乳母である比企尼の養子です。そのため早くから頼朝に仕え、側近となり信頼を得ていました。そして2代目将軍頼家に娘・若狭局（わかさのつぼね）を送り込んでいて、権力を得ていました。北条一族はこれがおもしろくなかった。さらに若狭局は、長男「一幡」を出産。頼家は比企氏ばかりを頼るように。自然に比企氏と北条氏の対立が進んでいくのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1203年8月　北条VS比企<br />
<br />
</font>この年の8月、頼家が病気になりました。かなりの重態で危篤状態となってしまったのです。この時、北条時政と政子は頼家を将軍やめさせて政子のもとで育てていた次男の実朝を時期将軍にさせようと計画。頼家は比企氏サイドについたばかりか、ちょっと性格が乱暴であまりいい将軍じゃなかったから。<br />
<br />
そして頼家病気療養中に勝手に権力を分割。全国の守護・地頭の権利を頼家の息子一幡と実朝に分けちゃったのです。これを聞いて頼家は、家督を譲るのは弟ではなく、自分の子一幡じゃ！と激怒。比企氏と手を組み、北条やっつける計画をたて始めたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1203年9月　比企の乱<br />
<br />
</font>北条時政はそれを察知し、巧みに比企能員を自宅に招き無防備だった比企能員を殺害してしまったのです！そしてすぐに、和田・三浦・畠山の協力を得て比企氏の家に攻撃しにいったのです。頼員を殺された比企一族は、一幡の屋敷に立て籠もりました。北条らは比企氏の家に火をつけました。6歳の一幡と若狭局は炎の中に消えていったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1203年9月　頼家大ショック<br />
<br />
</font>妻と子供が殺されたことを知った頼家。すぐさま和田義盛らに時政を殺せぇー！と命じました。ですが和田はすでに時政と通じていました。頼家は泣く泣く将軍の座を奪われ出家させられてしまったのです。頼家は、伊豆の修善寺に幽閉されました。そして翌年、お風呂に入っている時に時政の暗殺者により殺されたのです。23歳でした。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1203年　3代将軍　源実朝　時政と政子のバトル<br />
<br />
</font>頼家が暗殺され、弟の実朝が11歳の若さで3代将軍に。幕府の実権は、執権である北条時政が握っていました。もとは政所の長官を執権と呼んでて、のちに侍所の長官も兼ねるようになる。が、時政は執権だけでは足りなくなってきたのです。この頃、時政は後妻の牧の方の言いなりになりつつありました。政子はこの牧の方が大嫌いなのでした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">実朝　13歳で結婚する<br />
<br />
</font>政子は実朝と自分の姪を結婚させよと思っていました。ところが、実朝は京都の貴族の娘と結婚してしまったのです。その京都の娘とは牧の方と時政の娘の嫁ぎ先の家の娘でした。この頃、牧の方の発言力は政子をも凌ぐようになっていたのです。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1205年2月　畠山一族滅亡&nbsp;<br />
<br />
</font>ある時、有力御家人である畠山氏が時政の大好きな牧の方の娘のお婿さんである平賀朝雅とケンカしちゃう。1205年6月、時政は息子の義時と時房を呼び、謀反を企ててる畠山をやっつけろと命令。だけど、政子や義時・時房は後妻である牧の方が嫌いでしたので<br />
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討伐に参加したくないと命令を断ったのですが、当時の実力者時政には逆らえず、仕方がなく畠山討伐に向かいました。いざ討伐しに行くと、畠山氏はもちろん謀反など企てていなかったが、他の武士らの手前、畠山氏を討ち取るしかなく畠山一族滅亡したのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1205年　親子ゲンカ！北条時政失脚<br />
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</font>時政と牧の方に利用されたことにムカついてる先妻チーム3人と、時政・牧の方夫婦チームの間に亀裂が入りまくっていました。すると時政、今度は実朝に将軍を辞めさせて、牧の方の娘のお婿さんである平賀朝雅を将軍にしようと企む。が、このたくらみに参加してくれる御家人は全然いませんでした。<br />
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そしてこ計画は政子と政子の弟の義時にばれてしまい、失敗に終わったのです。このチャンスを逃すか！と先妻チームは時政らを攻撃！こうして時政と牧の方を伊豆へ追放したのです。1205年に時政は失脚し執権は義時へ。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">蹴鞠大好き！三代将軍実朝<br />
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</font>幼くして将軍になった実朝。実権を持たない飾り物であることをわかっていました。変に逆らうと、兄の頼家みたいになっちゃうし・・・ということで、反抗することもありませんでした。ですがやはり不満は溜まっており、そのはけ口を歌の道に求めていました。京都が大好きになってきた実朝。<br />
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そして時の上皇である後鳥羽上皇とも歌の道を通して出会い、実朝は後鳥羽上皇を尊敬するようになっていくのです。ですが「天下の将軍が武の道から外れて、天皇家に尻尾を振っている」ということとなり、東国武士達から批判の声が出てきたのです。しだいに「実朝は蹴鞠や歌ばっかやって遊んでばかり。武芸は全くできないダメ将軍」というイメージになってきてしまったのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1213年　和田氏の乱&nbsp;<br />
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</font>執権政治を始めた義時にとって、今や和田氏・三浦氏が最大のライバルちなみに、和田氏は三浦氏と同族。和田義盛は、鎌倉幕府創立時からの有力御家人で、侍所の長官。北条氏の専制政治に自分達は邪魔だと常日頃感じている和田義盛は、北条討伐の計画を密かに進めていた。が、これが密告によりばれてしまい、和田一族はばれたらなしようがない！と北条氏を攻撃。<br />
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なかなか奮闘するが、幕府軍の人数には勝てることができず、とうとう和田氏の4男が討たれたのです。すると父・義盛悲しみのあまり戦意を失ってしまい、討たれてしまった。これは、北条氏による有力御家人を排除するための陰謀という説もあり。ちなみに、江ノ電の駅に「和田塚」というのがありますが、ここを明治時代に掘ったところ、すごい数の人骨が出てきたらしく、ここが「和田合戦」の場所と言われています。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1219年1月27日　実朝暗殺　いちょうの木の公暁&nbsp;<br />
</font>実朝は将軍だけど実権はまったくなく、その反発からか京風の文化を好み和歌や蹴鞠などをして遊んでばっかいる毎日。藤原定家に和歌を学び、「金槐和歌集」という歌集を作っちゃうほど。そんなある日、鶴岡八幡宮へ出かけました。が、鶴岡八幡宮のいちょうの木の下に潜んでいる男がいた。<br />
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その名は「公暁（くぎょう）」2代将軍頼家の次男で、実朝の甥になります。幼い頃から、父を殺したのは実朝・・・と、実朝政権を嫌う人々から叩き込まれており、とうとうこの日、「父のカタキ！！」と実朝を暗殺してしまったのです。これにより、源頼朝の血を継いだ将軍は3代で途絶えてしまいました。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">実朝暗殺の黒幕は！？<br />
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</font>この暗殺の黒幕は色んな説がありますが、有力なのは三浦氏。三浦義村は北条義時につぐ幕府N02の権力の持ち主。義村は源実朝と北条義時を2人まとめて葬り、幕府をのっとってやろう！と思っていた。そして暗殺者公暁の乳母は三浦義村の妻・・・。<br />
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義村は公暁を４代将軍とし、幕府を操ろうとしていた。が、この暗殺が北条泰時にバレてしまったのです。北条義時は実朝の後ろにいて歩く役割だったんだけど、途中で具合が悪いといって、京都からやってきた源仲章（なかあき）にその役割を譲ったのです。そして公暁は実朝と仲章を殺害！仲章お気の毒だよ(^^;)&nbsp;<br />
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公暁は計画通り実朝＆義時を殺したと三浦義村に使者を送るんだけど、反対に義村からの使者に殺されてしまうのです。他には、義時がもっと自由に執権政治をやりたいがために公暁をそそのかしたのでは？？・・とう説もあり。幕府はその後「将軍暗殺は公暁一人の単独犯」と発表しました。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">朝廷の権力者　後鳥羽上皇<br />
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</font>この頃京都では高倉天皇の4番目の息子で、安徳天皇の後の82代　後鳥羽天皇が朝廷を仕切っていました。後鳥羽天皇は文武ともに優れている秀才でした。1198年に土皇門天皇に譲位し、院政をスタートさせてました。和歌を好んでおり、1205年には藤原定家に新古今和歌集を作らせたりしていた。ちなみに、鴨長明の方丈記もこの頃。武芸に優れた後鳥羽上皇は、幕府の力に屈しない強い意思の持ち主で、幕府がえばりくさってるのが気に入らなかった。そこに3代将軍実朝が殺された！というニュースが届いたのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1221年5月　後鳥羽上皇動く　打倒幕府！<br />
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</font>「将軍が暗殺！」これで幕府内は動揺するに違いない！運が向いてきたぞとニンマリ。幕府はというと次の将軍はどうする？ってことになりました。実朝に子供がいなかったからです。政子らは朝廷のご機嫌伺いのために「後鳥羽上皇の一族を将軍にしませんか？」とお願いに行くも、後鳥羽上皇に拒否されてしまいました。代わりに九条家の息子頼経２歳を鎌倉に送ったのです。<br />
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さらに弱体化した幕府に対し、後鳥羽上皇は愛人亀菊の所領を担当している幕府の地頭職の解任を要求したりと、幕府を挑発。西日本には御家人じゃない武士も多いし、僧兵や熊野の人々も朝廷側についてくれるはず！そう考えた後鳥羽上皇は、ついに1221年5月　幕府討伐を決意したのです！政子の弟の執権北条義時をやっつける！という宣旨をだしたのです。<br />
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後鳥羽上皇謀反のニュースを受けた北条義時は焦った。有力な御家人らを次々ぶったおしてたため、北条家は人気がなかったのです。それにあの頼朝さえ真正面から朝廷に反抗したことはない。この時代天皇は神であります。幕府はついにこれまでか・・・と皆思ったのでした。</p>]]>
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    <pubDate>Thu, 08 May 2008 23:44:29 GMT</pubDate>
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